つき

鈴木田がにやけ面でじろじろとこちらを見るので、俺は睨んでやる。お前には関係ない、と口の中で呟く。お前は俺の親じゃないし兄じゃないし友人でもない。ただの鈴木田だ。時間の感覚を狂わせた時計だ。つまりは糞の役にも立たない屑だ。
人工太陽サノブリボナ暴走から五十三日。この界隈で生き残っているのは俺と鈴木田と、鈴木田の母親くらいだ。年老いた母親を鈴木田は足手まといと呼んだ。俺はそんな鈴木田が嫌いだった。



あと十六年で、太陽崩御の時は訪れる。最後まで識者たちは論争を続けた。地底深くでフルアーマーを纏い、何十年も語り合っていた。
「私たちは死ぬべきなのだ。太陽の替わりなど、産むべきではない」
「何故無為に死なねばならない。人類は何度も滅亡の危機に頻してきた。その度自然の摂理を曲げても、生き延びてきたではないか。今回だけ特別である理由はない。死ぬというなら、お前はそれを脱いでここを出るんだな」

何十年も、何十年も繰り返した所為で、その間に各国の大企業が力を合わせて人工太陽を作り上げてしまった。言葉は間に合わなかった。時は流れすぎた。
「生まれ変わった太陽」の名を持つその人工太陽は、アメリカのヒューストンから打ち上げられ、宇宙で組み立てられることになった。その間にも地底では言い争いが絶えなかった。だから太陽は殺されて、サノブリボナは打ち上げられた。
ある地域では氷河期が訪れていた。素朴な太陽信仰の根付いた地域だった。太陽が死んだ瞬間にその土地は死んだ。殉死に似ている。神を信じない俺は思った。

しかし俺の上では、死ぬ前と大差ない太陽がぎらぎら輝いていた。古典の研究や映像史料を漁り、俺たちの知る太陽よりも少し若返らせたらしかった。陽射しは柔らかく、透き通っていた。
サノブリボナ打ち上げから一週間経つと、人々は長い戦争から解放されたように活気付き始める。太陽の寿命が明確になってから、世界は混乱し絶望し荒れに荒れた。その世界に生まれた俺は初めて真っ直ぐな母の笑顔を見た。洗濯物を抱えながら俺の失敗に笑う母は少女のようで眩しかった。

俺は学校に行き始めた。人は嫌いで協調も嫌いで元々集団生活に向いてないのだと分析していたのに、何故だか行き始めた。世の中が浮かれていたから、俺の頭も浮いてしまったのに違いない。母の笑顔が見たくて、行ってきますと叫んだのに、違いない。

打ち上げから大体一年経った。俺は学校で幾人かの友人を作って太陽の下でだらだら生きた。平和は尊くて愛しくて慈しむべきものだった。
じゃあな、と友人と別れ、家路を歩く。随分と遊び呆け、陽が暮れかけていた。日が延びたな、とぼんやり思った。前の道から誰かが歩いてくる。見知った男は俺を見て小さく頭を下げた。俺も頷くように挨拶をする。すれ違いかけたところで、向こうは俺に掴みかかってきた。

「何かおかしいと思わないか」
絡まれた、と瞬時に判断し、そいつを突き飛ばした。俺は思い切り手を振るったのにそいつはびくりともしなかった。骨ばった色の青白い手は俺の肩を掴んで放さない。
「聞いてくれ」
そいつは俺の名を呼んで諭した。
「今何時かわかるか」
覗く手首には腕時計が巻かれている。意味がわからなかった。
「二十時二分でしょう」
「やはりか」

何がおかしいのだ。こいつの頭がおかしいのではなかろうか。
「それが何です、鈴木田さん」
「サノブリボナの設定は二億年前の、太陽のあった地球だ」
二億年前の地球、と言った。二億年前の太陽、とは言わなかった。
「二億年前、夏至の太陽は、二十時には沈んでいた」

何を言っているのだろう、こいつは。鈴木田のことはよく知っていた。近所の有名人、という噂によって、よく知っていた。恐慌の只中にありながら働きもせず食いもせず学校にも行かずに本を溜め込んで引きこもっている、と有名だった。幼い頃、俺は鈴木田と遊んだことがあるらしく、鈴木田は会う度俺に中途半端な会釈をした。
だから、俺は鈴木田が嫌いだった。

「よくわからないんですけど」
早く帰りたい。母は俺の帰りを待っている。帰らねばならない。それでも鈴木田は手を放さない。
「だから、今太陽が出ているなんてことは、異常だとしか思えないんだ」
「もう暮れかけてますけど」
「未知の危機が目の前に突き付けられても人間は前例の中でしか動けない」
鈴木田は目を細める。
「明日昇る太陽は屍かもしれない」

俺は舌打ちをして、右拳を目一杯下げた。弾かれた弓のように、俺の拳は飛んで、鈴木田の顔面を射抜いた。そして走り出した。
俺は自宅の階段を駆け下りて、ばさりと布団を頭まで被った。どうしたの、と母の声がする。どうしたらいいのだろう、と思う。人を殴ってしまった。ろくでなしで、変質者で、意味のわからない奴だとしても、殴ったのは俺だ。あのまま死んでしまったら俺は殺人者だ。どうしたらいいんだろう。その日はそのまま寝た。素っ裸の男が謝りながら俺の髪を食いちぎる夢を見た。起きて直ぐ忘れた。

俺の部屋は地下にある。太陽崩御に備えて作ったシェルターに俺は寝ている。無骨で寒い。夏にはいい。梯子段を昇り天井に付けられた扉を押し上げる。やけに重たく、微かに開いたばかりだった。洩れる陽光に目を細める。

痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。痛い。俺は右目を押さえる。何かが刺さったのか。じりじりと瞼は熱を発する。焼かれているようだ。太陽。生まれ変わった太陽。堪らず片目を頼りに階段を落ちるように下りる。
そんな、と口の中で呟く。そんな馬鹿なことがある筈ない。それでも俺は階段を上がることが出来なかった。何故なら上から母の声は聞こえず慌ただしい父の歩みも聞こえないからだ。だから俺は寝ていてもおかしくない。
狂ったようにサイレンが鳴り響いている。痛みは引かなかった。思い出したように俺を虐め、熱を持ち続けた。

携帯電話で連絡を試みた。友人にメールを入れ、電話を掛ける。少ない友人たちは誰も応答しなかった。パソコンを立ち上げニュースを読むと、とち狂ったような文章が画面中を占めていた。やはりサノブリボナは壊れたらしかった。そんな馬鹿なことが。生まれ変わる為に死んだ太陽は二度と生まれることはなかった。空にはさんさんと生ける屍が輝いている。

いつからかパソコンの時計が狂っていた。ネットの記事を読むに、俺の感覚が狂ったわけではないらしかった。昨夜から徐々にずれてきているらしい。もう陽の落ちる「二十時」になったというのに、時計は八つ時を指している。俺の信じていた時間はもう俺の中にしかない。
時計がなくても時は進む。二十時は夜なのだ、と漸く思い出した。

力の入らない体勢で無理矢理扉を押し上げると、どろりとした物体が流れ落ちてきた。赤と黄の混じる粘液のようなそれは見覚えのある髪飾りを飲み込んで俺の腕を侵した。
ああ。
思わず右の瞼を上げると何かが俺の頬をどろどろ這い始めた。熱い。俺はこの狭い視界で生きていかねばならないのか、と思うと、涙が出た。右から出ているのかはわからない。熱い粘液はまだ俺の右頬を這っている。

「ほら」
鈴木田が俺を見下ろしている。
「言ったじゃないか」
俺は奴の痩せた左頬をもう一発殴ってやった。その日から、五十三日目だ。



「あんたは何も食わないんでしょう」
鈴木田はここに至ってまだ人道だの道徳だのとほざいている。俺が窓を叩き割って侵入すれば従いてくる癖に、自分の手は汚さないし、盗品は食わないし食わせない。俺が罪を作るとにやにや笑って俺を見る。
「そして死んでいくんですね」
「人間は死ぬべきだったんだよ」
「でも生き残ってしまったんですから」
生きるしかない。俺は死ぬことが出来ない。だから何としても生きなければいけないのだ。

「あんた死ねばいいじゃないですか」
「足手まといが居るから死ねないんだ」
また足手まといという。俺は湿気たコーンフレークを食道に流し込む。喉が渇いたので台所の蛇口から直接水を飲んだ。この水もいずれ終わるのだろう。コンロの前には、腐敗を通り越してかぴかぴに乾いた肉塊があった。俺もいずれかぴかぴに乾くのだろう。

「馬鹿じゃないですか」
「馬鹿でいいんだ。俺は大事なものを曲げたくない。死んでもね」
「じゃあ何で俺と行動するんだ」
鈴木田は、サノブリボナの影響を受けない夜間だけ俺と行動を共にする。時計が壊れ、鈴木田は時間を失くしたから、俺が夜明けを報せれば足手まといの所に帰って行く。
身は安全にしたって、俺は犯罪者で暴力的で愚かで屑で馬鹿だ。行動を共にする理由なんて、欠片もないのだ。もしかして鈴木田は俺以上の馬鹿で屑なんじゃないのか。

「俺はあんたの道徳に賛同出来ない」
「しなくていい。君は君の価値の中で生きればいい」
「じゃあ従いてくんなよ!」
俺はまた鈴木田を殴る。思えばあれからこいつを殴り続けている。それでも鈴木田は従いてくる。もしかして変態なんじゃないか。俺は殴りたくて殴っているわけじゃない。殴った手は痛い。面白くも何ともない。

鈴木田はげほげほ噎せる。それでからにやりと笑ってこちらを向いた。やっぱり変態かもしれん。俺も何だか知らんが笑った。
「面白いのですか」
俺は聞く。笑いながら聞く。
「面白い筈がない」
「では何故笑います」
「その暴力性さ」
笑う理由にはならない。鈴木田は笑いのつぼもおかしいのかもしれない。

「君は人面獣心、野生にあるべき存在なのかも知れないな。適応能力が余りにも高い。突然の環境変化にも君は恐ろしいくらいの早さで順応した」
「それが面白いですか」
「酷く凶悪に、君は生まれ変わった」
「凶悪ですか」
禍々しき悪。俺は笑う。おかしなことを言う。お前の価値で生きろと言いながら、善だ悪だと散々喚く。俺からすれば凶悪はお前の方だ。

「さんざ親の脛齧って生き永らえてきた人が言いますね」
「脛を齧れる程逞しくない。脚が立たんのさ。いずれ殺してやろうとずっと心していたのに、あの日俺は足手まといを押入れにぶち込んだんだ。お陰でまだ生きている。君と同じだ。死ねなかったのさ」
俺はいつそんなことを洩らしたろうか。こいつにそんな、切なる愚痴を吐いたのだろうか。口惜しくて舌を打った。

「なら、ずっとその足手まといさんの所に居ればいいでしょう。従いてくるな。煩いんだ」
「君は後悔しているんだろう。俺の忠告を聞かず母親を殺してしまった不孝に苦しんでいる。それを忘れる為に俺を殴り、家を破り、人を脱しようとしている。君に比べれば、俺は至極真っ当な人間なんじゃないかって、錯覚するんだ。君と共にある間だけ、俺は人であることが出来る」
「意味わかりませんよ」

「君はわからなくていいんだ。わかろうとしたところで、無駄な努力さ。鏡は己の形を知ることが出来ない。時計は己で時を知ることが出来ない」
「ああ、わけわからん。きもいわ。何処が真っ当な人間ですか」
鈴木田はとにかく従いてくるのだ。それだけは理解した。俺の理解出来ない理由で以て従いてくる。俺は楽しくもないが憎々しい横っ面を殴るだけなので別に従いてきたって構わない。

どうせこいつは近々死ぬのだ。鈴木田は何も食ってないのだ。もう死ぬ。大丈夫。
大丈夫。

右頬に指を滑らす。すっかり浮き出た頬骨が乾いた肌を突き破りかねない。
鈴木田は五十三日前とちっとも変わらない青白い顔をして骨ばった指を左頬に当てている。

ふ、と口唇の隙間から息が洩れた。笑い出したら止まらないから俺は下唇を噛んで抑えた。
何て下らない。
それでも俺はこの世界で生きていくんだ。ここは俺の為の世界で、俺は生き残ってしまったのだから死ぬわけにいかない。まだ夜は明けない。秋になれば夜は段々と長くなっていくのだろうか。それとも徐々に短くなっていくのだろうか。前例がないから、俺にはわからない。

俺は空っぽの右目ににやけた笑顔を映して、鈴木田にそれを問うてみるべきか悩み、思い直してから口を開く。
「夜が明けますよ」
それでから走り出した。

ただひとり真夜中の手放された街に出る。長い地球の歴史の最初の日と最期の日は今現在かもしれない。空には二度目の死を謳歌する太陽が浮かんでいる。今はナイトモードだから消灯状態だ。太陽を亡くした月はもう死んでいる。生きているのはもう、俺だけだった。
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# by caramel_box02 | 2016-09-19 00:03 | みっじかいの(縣)

love crime

ノリと勢いでドラマ『HANNIBAL』からSiouxsie sioux and Brain Reitzellの「Love Crime」を和訳。
レクター博士の為の曲なのでそういう意識でしたが、よくわからなくなりました。
ドラマの内容を考えるとこうかな、というフィーリングとやり場のない意慾の塊です。will。最高です。


Oh, the skies, tumbling from your eyes
So sublime The chase to end all time
ああ、空が君の瞳から零れる
壮大な追跡劇はこれで終わりなのだ

Seasons call and fall,
from grace and uniform
Anatomical and metaphysical
季節は声を上げ墜ちる
優美さと押し並べた等しさから
個の否定と己の存在証明から

Oh, the dye, a blood red setting sun
Rushing through my veins
Burning up my skin
ああ、染まる、
血の朱を纏う落日が
わたしの静脈を駆け抜け
この皮膚を焦がしていく

I will survive,
live and thrive
Win this deadly game
わたしは生き残るだろう
生きて、活きていくだろう
この死のゲームに勝つのはわたしだ

Love crime
Love crime

I will survive, live and thrive I will survive, I will survive
わたしは生き残るだろう
生きて、成していく
わたしは生き残るだろう
わたしは生き残るだろう

I will
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# by caramel_box02 | 2015-09-02 21:39

環状線

 足元を猫が走っていると思えば、それは揺れに合わせて転がるコーヒーの空き缶だった。長い夢を見ていた。どれくらい眠っていたのかと外の風景に目を遣るが、間抜けに口を開いた俺の顔が見えるばかりである。
 車内は閑散としていた。俺は車内に立ち込める熱気に当てられて眠りに落ちた筈なのに、起きてみれば酷く寒い。気の利きすぎた暖房のお陰で、己の汗の冷たさに身を震わせる羽目になった。その所為で眠気もすっかり失せてくれた。
 腕時計を見遣る。もう直ぐ家に着く頃だろうか。コートの襟を合わせて、溜め息をつく。汗も徐々に引いてきて、体はぽかぽかと温まり出す。ここは楽園だ。外はどれだけ寒いだろう。この数日は雪が降りそうな、鋭い冷気を感じるのが常だった。

 からからから、と空き缶が転がった。
 缶から視線を上げると、自然に女と目が合う。俺の真正面に、いつの間にか女がひとり座っていた。蜂蜜のような黄色の、ふんわりしたワンピースを着た、すらりと痩せた美人だった。女は口許に微かに笑みを浮かべて、じっと俺を睨んでいた。
 美人に見詰められるというのも悪い気はしないが、俺は間違っても一目惚れされるような顔をしていない。その悲しい自覚が、沸き立つ自惚れを抑え込む。俺を誘っているわけではない。では知り合いだろうか。いや、記憶にない。次第に薄気味悪くなってきて、目を閉じて席にもたれ掛かった。

 からからから、と空き缶が転がった。それはかつん、と俺の爪先にぶつかった。
「おお」
 目を開けると、先の女が目の前に立っている。つい声をあげてしまった。女はただ微笑を湛えていた。
 女の足首には、木で作ったビーズのアクセサリーが巻かれていた。切れると願いが叶うという、あれだと思う。何という名前だったか。
 しかしこの空きに空いた車内で、わざわざ俺の前に立つというのがあるか。しかも女の視線は、変わらず俺に向けられている。

「あの」
 出来るだけにこやかに、女に声をかけた。
「何か、ご用でしょうか」
「いいえ」
 女の声はいやに高く、少女のように拙いものだった。ワンピースから伸びる細長い四肢に、不釣り合いな響きがあった。
「そうですか」
 いいえと言われてしまえば、これ以上言うことはない。どうせ俺は直ぐ降りるのだ。気にしたら負けだ。

 女が同じ駅で降りて、俺の後ろを着いてくる想像をする。俺は女と面識もないのだから、殺される心配はなかろうが、わからない。俺にとっての些細なことが、とんでもなく重大なことであるかもしれない。不意に睨んでしまっただとか、肩と肩がぶつかっただとか、考えてみれば恨まれる原因なんて幾らでもあるのだった。
 特に電車の中なんて、酷い。そもそも俺が座ってゆっくりと眠りにつくことが出来たのは、他人への無関心という武器で以て人を傷付けたからに他ならないのだ。誰もがそうしている。恨まれて然るべき、なんて理由は俺には見付からない。

「もし」
 女の甲高い声が、虎落笛(もがりぶえ)のように聞こえた。
「もし」
「はい?」
「あなたは何故私の前に座っているのでしょうか」
「はあ。何故と聞かれても」
 逆に聞きたい。何故俺の前に立つか。
「俺は元からここに座ってましたから」
「いいえ、いいえ。そこに座るのは私の子でした。何故あなたがそこに居るのです。気味の悪いこと」
「いや」
 気味が悪いのはこちらだ。この時間、子供が乗るようなことは稀だ。間違っても、こいつの子供なぞここには居ない。

「勘違いなされてるんですよ」
「いや、そこに座るべきなのは、確かに彼の妻だったね」
 妻ときた。とうとうおかしい。
「何故君がそこに座っているんだ。そこは彼の、妻の席だ」
「いや、ですから」
「ですから、じゃねえよ。ざけんなし。俺のミサの席なんだよ。退けよ、爺」
 爺とは心外な。俺は君と、十くらいしか変わらない。年長者に対して、偉そうに。
「ここは俺の席だ。俺が座っていたんだ。うるさいよ、何なんだよ」

「いいえ、いいえ。あなたの席ではありません。私の玄孫の席です」
「違う」
「いや、私は見ていた。彼の妻の席だ」
「違う」
「ミサの席だっつってんだろ」
「違う」
 からからから、と空き缶が転がった。それは俺の足許を離れて、対面する座席に座る女の足許にあった。
「落とした」
 女はぽつりと言って、缶を拾い上げた。そしてそれを大事そうに掌で包んで、ゆっくりと目を閉じた。
 アナウンスもなしに扉が開く。空気が急激に冷える。見覚えのあるホームの端が見えた。
 俺は鞄を抱え、コートの襟を掻き合わせて、電車を降りた。


   ■


 からからから、と空き缶が転がった。
「そっちに行っちゃ駄目よ」
 空き缶に対して注意するやつがあるだろうか。何かと思えば、まだ三つくらいの少女が俺の足許に座り込んでいて、その母親が連れ返しに来たようだ。
「駄目よ」
 こんな時間に、こんな幼子が居るのか。新鮮な気分になる。
「すみません」
 母親は苦笑いで頭を下げる。俺はただ笑いかける。そうか、居るものだな。俺はてっきり、この時間の電車に乗るのは帰宅するサラリーマンと学生だけだと思っていた。
 居るものだな。

「落とした」
 俺の足許の少女が、ぽつりと言った。
「落とした、落とした」
 屈んで床を眺めるが、落ちているのは空き缶だけだ。
「何を?」
「赤ちゃん」
「は?」
「ミサ」
 母親が慌てて子供を抱き上げる。子供は嫌々ともがくが、結局は押さえ込まれて対面の席に座るのだった。子供はきょろきょろ俺の顔を見た。

 扉が開く。冷気が滑り込む。
「寒い。ママ、いっぱいホットケーキ。いっぱい」
 親子は何か語らいながら電車を降りた。その後ろ姿を見るともなしに見て、扉が閉まる。むわりとした嫌な熱気が、俺の身体を包む。いやに暑い。暖房の設定温度を間違えているに違いない。背中を汗が伝った。

 女はやはり俺の対面に座っていた。真っ白い無気味な顔に優しい微笑を貼り付けて、俺を見詰めていた。俺はその微笑を求めていたような、拒んでいたような、懐かしい感覚に襲われる。その目で、漸くぴんときた。
「嘘をついていると思ったのでしょう」
 外気と同じ、温度の低い声だった。
「嘘?」
「ほら、見ての通り」
 指先で蜂蜜色のワンピースの裾をつまみ、広げてみせる。ふんわりとしたそれは、女の身体の線を巧妙に隠している。
「夫の誕生日だったんです。だから、私の体調なんか気にしてもらいたくなかった。元々無神経な人でしたけど」

 鏡のような窓ガラスに、不良めいた男の横顔が、ゾートロープのように浮かぶ。それは女の背後で、女の後頭部に向けて、笑いかけていた。
 例のアクセサリーが巻かれた足許は少し厚みのあるサンダルで、女はそれを見て無防備に、困ったように眉を下げた。初めて、女の顔に表情が生まれた。
「無茶というか、無理をしたんです。大丈夫だと思った。予定日も先でしたし、まだ」
「どうして、あんな時間に」
「夫の仕事が終わる時間に合わせて、電車に乗ったんです。知りませんでした。あんなに混んでいるものですか。無理矢理人が詰め込まれて、出荷されていくみたいですね」

 無言の俺に気付いてか、女はくすりと笑い、
「嘘をついていると思ったのでしょう」
「ああ」
 あんな時間のあんな電車の中に、妊婦が居る筈がない。おまけに派手な格好をしている。ただ座りたいが為に妊婦の振りをしたせこい女だと、思うことにした。
「俺を恨んでいるのか」
「いいえ、恨んでなんか。あなたでなくても、こうなっていたでしょうから」
 そうかもしれない。ただ偶然、この女が俺の前に立っていただけ。ただ偶然、その電車が急停車しただけ。それが俺でなくとも、結果は変わらなかったかもしれない。俺でなくとも、この赤ん坊を殺したかもしれない。誰だって。
 俺は何を必死に無意味な正当化をしようとしているんだ。
「私はあなたと無関係な人間ですから。無関心も仕方ありません。私だって、私を殺し得たかもしれない」
 女はふと溜め息を洩らした。
「目の前に立っていたって、何処までも無関係なのですから」
「本当に俺を恨んでないのか」
「恨んでほしいんですか?」
 俺は答えられなかった。ただ口を結んで俯く。
「あなたを恨んではいません。何度も言いますが、偶然だったんですから」
「ならどうして、今、俺の前に現れた」

 女は小さく首を傾げて、閉じた口を薄く笑みの形にした。俺は何て野暮なことを聞いたのだろうか。細い腕が、足許の木のアクセサリーを撫でる。
「私はただ、元気な赤ちゃんが産みたかっただけです」
 それが切れるのは、果たしていつになるのだろうか。それは女にとって足枷なのか、心の支えなのか、俺にはわからない。
「まだ、若いじゃないか」
 俺は自覚をして、無責任なことを言った。
「また、作ればいいじゃないか」
「そうでしょうか」

 アナウンスもなしに、扉が開いた。驚いて振り返るが、俺の無表情と目が合うばかりだ。
「そうだ。だから早く降りなさい」
 ガラスの向こうの女に語りかける。
「でも、こんな格好じゃ外には出られないでしょう」
 ガラスの向こうの女が立ち上がる。ノースリーブの、暖色のワンピースが膨らむ。
「私はまだまだここに居ますよ」

 車らしき閃きに浮かび上がった景色で、漸く目当ての駅であることに気付く。悠長にしすぎた。急いで降りると、間一髪、背後で扉が閉まった。
 寒い。寒い。じっとりと、嫌な脂汗を全身に掻いている。刺すように寒い。ポケットに手を突っ込み、首をすくめて、人気のないホームを出る。

 白いワンボックスカーの窓が開き、
「お帰り」
 妻は悪戯を仕掛ける子供のような笑みを浮かべた。
「‥‥大丈夫なのか」
 対照的に陰鬱な調子になった俺を不思議がるように、首を傾げる。
「何が?」
「腹だよ。赤ん坊が居るじゃないか」
「珍しいね、心配してくれるなんて」
 寒いから早く乗ってよと急かされて、助手席の扉に手を掛ける。

 からからから、と空き缶が転がった。誰かが、或いは俺が捨てたそれを指先でつまみ上げて、ごみ箱に放り投げた。それは籠の縁を叩いて、煌々と光る自動販売機の前に落ちた。
「ちゃんと捨ててきなよ」
 不服ながらも、こそこそと缶を拾い上げ、きちんとごみ箱に捨てる。円を描く矢印の中心に、陳腐な文句が書かれている。リサイクルでごみのない街。ぐるぐるぐるぐる回り続けて、バターにでもなるつもりなのだろうか。あの女はきっと阿呆だ。あの暖かな世界でぐるぐる回っている内に、脳も身体もどろどろに溶けてしまったのだ。

 俺は妻を助手席に移し、家路を駆けた。半分くらい行ったところで、はらはらとみぞれ状の雪が降り出した。この程度の雪では電車も止まるまい。俺は十年前に死んだ見知らぬ女の為に、十年ぶりに、幾度目かの涙を流した。






昔書いたのをリサイクル。
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# by caramel_box02 | 2015-06-24 12:53 | みっじかいの(縣)

童貞のうた

幼馴染みって君だけで
その所為かぼくは
つまらんこと覚えてたりするんだ
君が忘れてるようなことも

ぼくら他の連中みたいに
じゃれ合うことがなくて
人混みの中で手を引いてくれた時から
街を歩く度 期待してしまうのさ

でもぼくの恋ってどうだって
始まった時から終わってて
君も知らないその内に
ぼくは死んでいくんだろうな


君の口から友達と
聞くだけでかなり辛いし
余裕ないんだ
友人として 特別じゃないんじゃないかって

どんなラブソングだって
ぼくの心を歌っちゃいない
綺麗な文句 幾ら紡いだって
君への想いは醜いままだ

もう会う奴皆決まって
ぼくのこと嫌うからさ
君の他70億人に
希望持てる筈がないんだよ

こういうことは古来から
うたで伝えるもんらしい
ぼくは変わらず童貞です
君のこと思いながら死ぬつもりです
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# by caramel_box02 | 2014-11-12 08:44 | みっじかいの(縣)

NAMInoYUKUSAKI和訳

TVドラマ『SPEC』の主題歌、THE RICECOOKERSの「NAMInoYUKUSAKI」の歌詞の嘘和訳です。
和訳見てたら何か違うぞ、と思ったので英語出来ないなりに頑張ってますがきっと誤りしかないです。



I'm one step behind every step you take
ぼくは君の一歩後を歩んでる。
Each time I reach it just seems to fade away
いつも追い付けば何処かに消えてしまうようだ。
But with every speck of light, I fight the breaking need to try
でも微かな光を伴って、ぼくは破滅に抗ってみなきゃいけない。
Day will break the nite
日は夜を破って
And the light will find my way
光はぼくの道を照らし出すだろう。

In a dream I'm sure I saw it all
夢の中でぼくは確かに見た。
The tides that fall and rise again, and again
潮は引き、満ちて、そしてまた。
Well maybe it's just me, caught in desperation to
多分ぼくもそんなものだ。自棄糞なんだよ。
Fight this helpless falling sensation
救いようのない墜落の感覚と戦ってる。
I won't let this take me down
ぼくはそれに屈するつもりはない。

One after another endlessly
ひとつ終わりまたひとつ、繰り返して
How many more will I fight away
あと何回ぼくは戦うんだろう。
Every time hoping it'd be the last time I'll have to say hello
君との出会いはこれが最後ならと、いつだって願ってる。
Night after nite I dream of ways
夜が明けてまた夜、ぼくは夢を見続けてる。
To not have to meet you once again
再び君に会わないように。
Cuz every time feels like the very first time when I'll have to say goodbye
君との別れはいつだって、初めてみたいな気がするから。

You'll see me some day wondering around
君はいつか彷徨うぼくに会うんだろう。
Eyes shut and arms up singin' "I won't let me down"
目を閉じて腕を振り上げ「屈しない」と歌うぼくに。
And all I'll need is one break in your sigh to breath
ぼくに必要なのはそれを遮る君の溜め息で
Just one breath's enough to reach you
ただその一息で、君に届くには十分だ。
But somehow it keeps coming back
でもどうしたって戻り続けるんだよ。

One after another endlessly
それの後には違うそれが続いてて
How many more will I fight away
ぼくはあとどれだけ戦っていくんだろうな。
Every time hoping it'd be the last time I'll have to say hello
君との出会いはこれが最後であれといつも願ってる。
Night after nite I dream of ways
夜の後には違う夜が、ぼくは夢を見続けてる。
To not have to meet you once again
君に二度と会わずに済むように。
Cuz every time feels like the very first time when I'll have to say goodbye
君との別離の時はいつでも、ぼくの人生で初めてのことみたいに思うから。


Oh and as I open up my eyes
そうしてぼくが目を開く間に
A new dawn will cover it all
新しい夜明けが総てを包んでいくんだろう。
And so it starts again with the call of day
日の呼ぶ声と共にまた始まるんだ。
An endless start in motion
終わらない始まりが動き出す。

Build up of expectations
想像を逞しくしろよ。
And it soon engulfs the best of us
そいつはその内、誰彼構わずに襲い掛かる。
Lost in its speculations
推論の中で見失って
Will we ever find a way to trust
ぼくらは信じる道を見付けられる時がくるんだろうか。
What I'll need is a kind of patience
ぼくに要るのはちょっとした忍耐だ。
One that will give me the will to fight
それは戦う為の意思をくれるものなんだ。
The last voice that ends in cadence
最後の言葉は抑揚の中で終わった。
I won't let it be me
ぼくは自分をそうさせやしない。

One after another endlessly
そいつは永遠に途切れることなく
How many more will I fight away
ぼくはどれだけ戦うんだろうな?
Every time hoping it'd be the last time I'll have to say hello
いつだって君へのハローはこれで終わりにしたいと祈ってる。
Night after nite I dream of ways
夜は途切れることなく、ぼくは夢を見てる。
To not have to meet you once again
もう君に会わなくていいように。
Cuz every time feels like the very first time when I'll have to say goodbye
いつだって君へのグッドバイが最初の最初みたいに思えるからさ。

I'll get by with a little bit of
Hope and all and maybe just a little
ぼくはほんの少しの希望やらその他諸々やら
多分そのちょっとしたもので何とかやっていくんだろう。
Push on my shoulder and yes I'll take my plunge now
肩を前に進めて、今思い切って飛び込むんだ。
Cuz all in all it all rests on
全部が全部それ以外の何もかも
The first hand that you can let go
その手で君は解放してやれる。
Then and only then will you see why you've held on
そうしたらその時やっと、君が踏み留まり続けた意味がわかるんだ。

No
And yes you'll see why you've held on
No
いや、君にその理由がわかるものか
まだ定かじゃないよ。
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# by caramel_box02 | 2014-03-28 17:22 | みっじかいの(縣)

地軸傾けて海に沈める

 俺に通う血の温度を計ったって平均値平常値ド真ん中ストレートをぶち抜くフォッサマグナみたいに。平均的な俺は。
 地軸が大いに乱れて飛び起きた。平々凡々とはいうがヘイキンというのが正しい位置にあるか?答えはノーだ。平均はいつでも主観的だ。どうしても自身の方に傾くもんだ。
 一口に枠組みだけを話したって何にもなりゃしない。俺は日本人で!それがどうした。お前の意見は聞いてない。お前の意見はお前の意見だからだ。干渉するな!

 そう、飛び起きた俺だ。俺はどうしたかというとまず便所に行ったね。
それでからどうしたものかと考えることにした。地軸がズレるというのは大問題だ。地球は何度だか知らないがちょっと斜めに傾いている。斜に構える地球ということだ。粋がってんじゃねえよ!道のド真ん中で吐く連中が朝からグッモーニンの挨拶がわりにゲロだぜ。俺はドロドロの道を走り抜けて心中のお誘いに行った。
 幽霊みたいに青白い顔した女が俺の脚を引いてスリーパーホールドを決めてきやがる。そういうイカレた連中を物理的に踏み越え乗り越えして、俺は物理的に君の元に辿り着いた。その頃には返りゲロ塗れで、まあいっかななんてラフな気持ちで来てしまったことを激しく後悔、反省すれども着いてしまったもんは仕方ない。ハイツ吉宗402号室のインターホンを狂ったように押した。狂ったように押させたのは君だ。早く出てくれないから。
 郵便受けから声を掛けると君の嘔吐いた一瞬間後に吐瀉物がびたびたタイルを叩く音がした。こいつも吐きやがる!でも俺は大丈夫かい大丈夫かいなどといって励ます。開けとくれよとノブをがちゃがちゃやるが一向に開く気配がない。裏切り者め。俺は思い付く限りの罵倒を浴びせて、思い付かなくなったところで立ち去った。

 地軸があれになっても平気なのはどうやら俺くらいらしい。免疫でもあるのかしら。なら俺から特効薬を作ったら製薬会社も俺も大儲けなのではないか。俺は心持ち真摯な顔付きをして背筋も真っ直ぐゲロロードを闊歩、この場合のマッスグな背筋っていうのは普遍的なもんじゃなくて、何故なら地軸が傾いたから空と大地の平行線も狂う狂う、だから一応俺なりのマッスグを貫いた背筋で歩いていた。製薬会社の場所なんか知らんので便宜上の真っ直ぐで歩いていったら海に出た。何かちょっと俺から見て右側の方が水が多い。コップの中の水だね。それでも水平線はちゃんと在る。
 そういや死に損ねたっけ。心中の約束はもっと遠い昔に1度してる。今度こそとでもいうつもりだったのか、でも昔のあの子は君じゃない。こんな辛い目に遭うのなら死んでやろうと思っていたのさ!俺たちは首の皮一枚でどうにか生き延びた。教師の匙加減ひとつで。きったねえ人差し指で。
 約束した死に場所は海じゃなかったし俺は泳げないし風がべたべたするし正直海なんて大っ嫌いだけど、それでも感傷的にはなるね。今頃魚たちはどうしてんのかしら。もう地球を脱出したのかね。穿った見方をすれば人類の横暴を考えればこうなって当然ということだね。でも地球を動かしてんのは人間じゃないからそういう理屈は立たない。1億も2億も生きてちゃ色んなことがあるさ。そういうことだ。だから俺は「宇宙から使者が来て地球に対して酷いことばっかやってる人類滅ぼしちゃうよ系」の話が嫌い。都市に住む人間だけが出来る発想だ。そんな話今のところふたつしか知らねーが。ふたつも知ってるなんて。大体そんな糞下らねえ話がこの世に少なくともふたつは存在するなんて!
 俺は遣る方ない怒りに襲われて神経がバースト、フルスロットルでアバンギャルド、何それ?口を開くと叫び出しそうだから手でがっしり押さえ付けて海岸沿いを走っていった。ゲロよかマシだが砂に足を取られて走りにくい。そうだ。製薬会社に行くんだった。ボロ儲けの大金持ちで海原に札束浮かべて美女を侍らせ人生が変わりましたって厭らしい笑みを湛えんのさ、信じて下さい。世界を救いたいと思いました。俺の力で苦しむ人をひとりでも減らしたいと。
 スーツの男は値踏みするように、ようにっていったけど実際に目視だけで俺に値段を付けて鼻から短い息を洩らした。次に云うことはわかってるぜ。それで?だ。それで。それで。俺は。地軸が傾いて目が醒めたんです。助けて下さい。俺だけが無事です。吐きません。吐けません。苦しいのです。俺は。俺を。どうか。
「口を開いてみてはどうですか」
 俺は固く結んだ口を開いた。堰切って色んなものが溢れ出てきて涙もボロボロ出てきた。ボロボロ。でもそこに確かなものなんか存在しなかった。
「俺は何なのでしょう」
「パラノイアだね」
「いや何処にでも居るよ。君のような人間は。こういうご時世だからね。いざってなるとそうなっちゃう子、多いんだ。だから気にすることはない。君は」
 平均的だよ。そうか。何処かで聞いた。ドストレートの回答だ。ストライク。だから覚えてる。そこから反論は始まったんだ。あなたがなければ今の俺はない。有難う。
「最後に何か、アピールしておきたいことはありますか?」
「俺から特効薬が作れますよ」
 俺はへらへら笑った。ゲロの臭いがやばかったけど、俺のだからいいよね。
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# by caramel_box02 | 2013-01-22 17:43 | みっじかいの(縣)

後回

 奴の表面的な態度の、或いは深層に潜む悪漢めいた性質を見抜いてないではなかった。ドラッグの代用品の遣り過ぎでぶっ飛んでいた意識が戻ってくるまでの三日間、仏壇の菊が悉く茶色く染まるまでの三日間、まさかその三日で俺の努力がパーになろうとは。思ってもいなかっただけのこと。

 感じていたかも知れないけれど。

 母と父を失った俺たちは空気の中を漂う何かもやもやしたものをぱくぱく吸い込むみたいに息をして、呼吸がままならないから問題は後回しって面を誰からともなくして、三十年モノの一軒家を行く当てもなく彷徨っていた。弔問客を捌いて三十年の人生の中で一番多忙な三日間を終えた長兄は、カウチで眠り込んでいると思っていたら消滅していた。スーツを着て出ていったというから一週間待ったが、行き先は会社ではないらしかった。俺は兄を失った。

 次兄と俺は隠者のような生活をしていたから生活の為の所作が非常に胡乱で、妹に頼むことにした。それが我が家の総意だった。民主的!冷蔵庫が壊れて中身が腐り始めた。買い換える金はない。その日食うものはその日手に入れた方がずっと安い。腐ってもらって結構だ。俺には関係ないね。でも妹にとっては大事らしくて次兄の頬に後ろ回し蹴りを喰らわせて前歯を欠損させた。あんまりにも酷い顔だったので指を差して笑ってやると、次兄も照れたみたいににへにへしてその場は丸く収まった。

 三兄は脚の神経をまじでぶち切っていて動けないらしい。幼稚園のぐるぐる回る遊具に立ったらたったそれだけの行いの悪さで両脚の何かを断ったとかいう。それから車椅子生活だというが俺は顔を合わせるのも稀だった。一階から甲高い金属の軋む音が聞こえると、あああれが三兄かとぼんやり考えたりして、俺たちの接点はそれだけだった。俺の顔を見るなり三兄はぺこりと頭を下げて、にこりと笑った。漫画みたいな笑顔で。そして小さな声で悪いね、と言った。我が家の人間とはとても思えない。胃の痛くなるような思いがして三兄の部屋を出た。がちゃりと内側から鍵のかかった音がした。がちゃり。

 四兄は大学を二浪して存在証明《ガクセイショウ》を勝ち取った。今何年生なのか知らないが、まだ大学は奴を追い出さない。金を搾り取れるだけ取ろうという算段だ。四兄に残された存在意義は、それだけだ。

 五兄に関しては書くことがない。それは五兄が悪いわけでも何でもなくて、俺の生まれる前に五兄は死んだから。手記を沢山残していて、誰かの意向で捨てずにあるから可哀想に五兄の思考はだだ漏れ、漏れに漏れて、今や俺の手に渡っている。大学ノート六冊分に及ぶそれは二十二の頃から二十五歳迄の、日記とも呼べない代物だった。多分日記の方が面白い。一言でいえば陳腐で下らない。でも五兄が悪いわけでも何でもなくて、誰に見せることも意図していないのだから仕方ない。ノートの表紙にはただ使い始めの日付けだけが書かれている。自分の為の、手記だった。愛も恋も絶望も悪戯心も未練も何もない、死人の落書きだ。俺が居なくなったら再生紙に出されるだろう。そして五兄の存在は消える。それが摂理だ。

 さて、摂理なんて正解みたいな言葉が出たところで総ての答えを聞こうか。
「それは知ってる。四十二だよ」
「受け売りじゃ駄目だ。お前の答えだ。お前は何人目?」
「九男」
「じゃあ俺は何人目?」
「知らないよ」
「次男だよ。お前の弟だ」
 意味がわからないって顔をしやがる。会社に出ていたから綺麗に剃られていた髭もぼうぼうと伸びて、餓鬼っぽい表情が似合わない。苛々してヘッドバットを喰らわせるとまた歯が抜けた。よくよく歯の抜ける男だ。

「消えろよ」
 こいつらの所為で兄は消えた。安いスーツは近所のコンビニのゴミ箱に捨てられてた。象徴的だ!余りにシンボリックだから、そうか、こいつらはそれぞれ象徴の塊なのだと思った。その象徴さえ消してしまえばこいゆらは消える。消して消して、全部消したら兄は戻ってくる?
 それとも兄の肉体は空っぽになるのだろうか?
「お前の答えは何だ?九兄。四十二以外で頼むよ。いや、おい。あの本を読んだのか?俺の部屋を漁ったのか?ふざけんなよ。ふざけんな。あれは兄貴の本だったんだよ。やっと手に入ったんだ。お前なんかに触らせて堪るか。堪るか。堪るか。さあ、答えろ。答えは?お前は」
「ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね」

 右腕がぶるりと震える。十も離れた大きな兄が俺は怖くて、
「もう本を取ったりしません」
 怖くて右腕に押し付けられる、
「熱いよ」
 押し付けられる煙草の八五〇度に怯えて泣いた。わんわん泣いた。ふざけんな。
「消えろよ」

      ◆

 冷蔵庫を新調した。一番上の兄が人格の中から消滅したらしいので、貯金と保険金だけで何とかやってきたが流石に辛い。と頭を抱えていたところにこの僥倖である。親が私たちに懸けていた保険は人格の死じゃ下りやしないが、こうなれば話は別だ。
「有難う、お兄ちゃん」
 小さい小さい冷蔵庫だけど、ふたりなら足りるだろう。



answer to life, the universe and everything=42
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# by caramel_box02 | 2013-01-22 12:24 | みっじかいの(縣)

ラブフォーエバー

 グラスウェイの半分まで来た。
 朝から休まず歩いているから少年の心も挫けてしまってとても。とても。
 吉日だというので父に昼飯代を貰って旅に出ることにした。愛車は兄が鉄屑にしてしまったので、徒歩での旅を余儀なくされていた。目的はない。カスみたいな夢を見るようになってちょうど一周年だから、目的なく歩いている。

 夢の中に人間が登場するのは稀だった。だからよく覚えている。一年前の寝苦しい夜だった。視界がちかちかして耳に入らぬ音が脳の中で絶え間なく鳴り続ける。それが突然ぱたっと止んで、暗闇に変わる。光る。艶々していた。女の手が目を覆う。そして耳元で呟く。ざっざっざっという音に掻き消された声が、耳の在らぬ場所で聞こえていた。
 汗だくで目が覚める。起きざまに足が攣るみたいに吐き気が襲ってきた。何度も同じ夢を見た。それから一年経つ。家族にも友人にも言いそびれて一年経つ。一周年なら何か変化があろうと思って日常とは違うことをしとうと思った。幾つかの選択肢の中で一番魅力的に思えたから旅をすることにした。

 グラスウェイの半分まで来た。かんかんと照らす陽光に当てられて俺の意識は飛んだ。

 道の真ん中で例の夢を見た。
 どぎゅきんきんかんずるぎきぎといってしんと静まり返る。白い光が脂の塊みたいな暗闇を裂く。ぼやぼやした覚束ない視界だった。女の手が天から下りてきて目を閉ざす。
 わかった。今漸く理解った。これは母の手だ。生まれる俺と死に逝く母が同じ視界を共有しているからわからないのだ。
 しかし声はやはり土を掻くような音に消されてしまう。それも仕方ない。もう母の耳はまともな音を拾えなくなっていたのだ。
 母は瞼を動かす力を失していたが、その目は光を吸って伸縮していた。祖母が瞼を撫で下ろし、母の五感は途絶える。皺の寄った手は、母が最期に見た光だった。

 俺はゆっくりと目を開ける。霞んだ風景だった。見知らぬ汚いなりの女が大きなバケツを構えている。中身を俺にぶっ掛けやがる。液体が変なところに入って大いに噎せた。
「起きたけ」
 バケツ女が笑う。起き上がろうとしたら吐いた。胃液だけの吐瀉物が服を汚す。
「無理すんな。もうちょっと寝てろ寝てろ」
 バケツ女の大きくてかさかさした手が、俺の目を覆う。温かな手だった。肥料とゲロの臭いがした。俺は目を閉じ、深く息を吐く。

 ざっざっと土を掘る音が聞こえてきた。そこから先は知らない。



   ★


 あるブロガーに憧れてエキブロを始めたのですが、その方が記事を全部削除してしまい悲しくてなりません。
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# by caramel_box02 | 2012-12-17 14:54 | みっじかいの(縣)

アルターエゴ

鬱すぎてどうしようか迷っている。





        ◆アルターエゴ


  家庭の。
  ごたごたと試験期間が重なっていた。死ぬか殺すかの端境《はざかい》で油彩画でも始めたら少しは救われるだろうかと腹の中だけで考えている。レポートが四本も溜まってんのに、材料もないから九段下から神保町の方に向かって歩いていた。
  材料どころか、実際は何も思い付いちゃいない。捻り出すつもりで手に持ったペンはくるくる回って紙を汚す。今朝はもう何も考えられなくて、髭も剃り忘れた。それでも、ただ座っていられるだけの余裕もまだない。何かに追われているようで、何処にも居られなかった。
「偶然」
  偶然を装った血塗れの男がおれを呼ぶ。こいつは昭和館を背負って建つ交番の前でずっと信号待ちしてやがる。脚がねえからそこから動けねえんだ。お巡りさんに助けてもらえばいいのに。
「何?四限終わり?これからどっか行くの」
  何処にも行かねえのにこんな場所に居るのはお前くらいだ。
「いいなあ。俺もどっか行きてえなあ。いいなあ。羨ましいわ。お前何年生になったの」
  おれは右の指を三本伸ばした。
「もうそんなになんのかよ。うわ、月日経つの早えわ。そりゃ俺だって老けるわな。怖え」
  信号が変わったので血塗れ野郎から解放される。あんな態してる癖に、阿呆だから同情する気も起きない。ただ、あれに面が割れていると思うと何となく恥ずかしいような気分になる。
  頭の長い爺の銅像が、向こうの歩道からおれを睨んでいる。こないだは九段下の方を向いて、キャサリンゼタジョーンズみたいなトリニトロトルエン火薬ボディの姉ちゃんを睨んでいた。この時間は愛煙家たちに囲まれて、煙たそうだ。千代田区は喫煙者に厳しい。あの爺さんの半径三メートルくらいは都会のオアシスってやつなのだろう。おれにはわからないが。
  爺さんは七人乗りの船の乗組員らしい。こんな爺に船乗りやらせるなんて、酷だよな。生涯現役が空回りして軋み始めている。隠居させてやれよ。
  七人みさきっていうのも水辺に出る七人組だが、こっちの方は超一流の殺し屋だ。各地で謂れがあるらしくてよくわからんが、見た奴はとにかく死ぬ。で、死んだ奴はその七人組に加入して代わりにひとり成仏する。人が殺せりゃ一抜けなんて物騒だが、餓鬼の作ったルールみたいでちょっと阿呆っぽい。
  頭の上に首都高の陸橋が走る俎橋《まないたばし》を渡る。七人みさきは出ないが、緑色の日本橋川には目ん玉がシジミのシジミババアが泳いでやがる。二枚貝が変に黒光りする。
  まことに解せねえが目がいいから、直ぐにおれを見付けて立ち泳ぎを始める。その時は貝殻がぱかっと開いて中の黄色いうねうねしたのがおれを見上げやがる。節穴の癖に。おれに難癖付ける腹なんだ。おれの一挙手一投足に文句を付けて、貶めるつもりなんだ。
  確信がある。昨夜インスタントの糞不味い味噌汁を飲んだ。違和感があって噛んだシジミを吐き出したら、小せえシジミの肉は赤黒い血の色に染まっていた。口内は切れちゃいない。シジミは赤い血を持たない。シジミババアのことを思い出した。あいつにはめられたのだと思った。
  出来るだけ早足で、それでも毅然とした風に俎橋を渡り切る。直ぐに糞短い横断歩道に出る。機を見て渡ってしまいたいが、微妙に車が続きやがっていけない。シジミババアの視線を背中に感じた。居並ぶリーマンを掻き割って、隠れる。婆の悪意を総身に受けて耐えられるような強い人間ではない。あいつは性質《たち》が悪い。同志を気取る馴れなれしい血塗れ野郎もおれを追うように睨む寿老人も、まだ可愛いもんだ。問題は目から水管伸ばすような輩だ。ああいうのは得てして、自分のことが見えちゃいねえ。
  ようやっと信号が青になったので、喜び勇んで神保町へ歩を進める。実際は喜んでも勇んでもいない。あれから逃げて生きていけるわけでもない。でも今は逃げるしかない。いずれ、食塩水を用意する。
  反対側の歩道にあった糞ボロい九段下ビルがとても好きだったのだけれど、昨年くらいにとうとう壊されてしまった。インターネットで見てみれば、勝手に入ることが出来たらしい。惜しいことだが過ぎたこと、最早更地と成り果てつ。でもまあ早々壊した方が、地震なんかで人が死ぬよりずっといい。
  いつもそうだ。全てが遅い。気付けばもう、壊れている。でもまあ早々壊れた方が、人が死ぬより。ぐるぐる頭を駆け回る。これでよかったんだ。誰も死なずに済んだ。おれはずっと懸念していた。誰かが死ぬまでこれは終わらんことなのだと。その死ぬのはおれでもなく爺でも婆でもヒキニートの兄貴でもなく、まだあどけない顔して段ボールいっぱいに肌色の同人誌を隠していた可愛い妹なのだと。でもそんなご都合主義で悲劇的で独善極まった妄想ももう終わりだ。これがハッピーエンドだ。
  そろそろ右手が古本街っぽい雰囲気を醸し出してくる。といってもまだ絵葉書とか筆とかが並んでる店があるだけだ。まだもうちょっと。凄え格好いい刀とかがラインナップされてる店の横に、古本屋が見えてくる。そのもうちょっと先にある芳賀書店の脇がもう神保町駅で、上手くやると九段下駅から視認出来るくらい近い。
  駅の階段から立ち昇ってくる中学生はぶらぶらする腕と脚引き摺ってやっと歩いている。色々と折れているようだ。顔も痣だらけで、こうして昇り切ってもまたこの階段から転げ落ちるのだろう。そういう生き物なのだ。おれにはどうしようもない。彼女にもどうしようもない。無間地獄というものは案外身近にあるものだ。
「非道い人」
  何かがおれの背後で囁く。
「いつも見えてるんでしょう、彼女のこと。それなのに、一度も助けてあげようともしなかった。あら、何?今日もまた逃げるのね」
  おれが幾ら逃げたって、お前に責められる筋合いはない。おれにどうこう出来る問題ではないのだ。逃げるしかないではないか。だから、奴らには責める言葉がなかった。おれに罪悪感抱いてんだな。でもこんな時だけ団結力を見せて、じとじとした目で以て総員でおれを睨んだ。追うように。追うように。
  おれは逃げたんだ。追われたわけじゃない。おれは。
  おれがライター買ったのを奴らは知っていたのかな。情けをかけられていたのだとしたら、おれはもう道化と変わらんな。あいつらは、無意識の内に凄え譲歩したのかな。家族だから。薄っぺらい事実の為に。
  灰燼となってしまったおれの部屋には好きな映画のポスターやら本やらがあって、でもおれの日常を彩ったそういうものは消えてしまえば枷でしかないことに気付く。またあれが欲しい。あれを買いたい。おれはまたあの部屋を再現しようとしている。果ては将来家庭を持って、あの家を再現しようと努めるかも知れない。ありそうで、やりそうで、口惜《くや》しかった。あれに愛情を抱いているだなんて思いたくない。でもおれが本当に求めているものはあれなのかも知れない。おれが憎んだあれの、在りし日の姿を、何よりも求めているのかも知れない。
  でも美化しても美化しても綻びだらけの絵にしかならんね。こんなものが欲しいなんて、おれもどうかしてる。
  これが家族なんだっておれは寸分も思わないけど、或いはホタルが綺麗なのと同じ理由かも知れん。暗い中じゃただ光るもんしか見えないから、幽玄な感じで舞うホタルは妙に心に来る。でも明るい空の下で光ってねえホタル見ても、ただの昆虫だ。おれは今相当暗い場所に居るんだな。
  そろそろ右手には古本屋、左手には飯屋っていう並びが続き始めて、世界一の古本街っぽい景色を呈してきた。スーツ姿の爺さんが目に付く。それよりも超スレンダーで緩いティーシャツ着てベビーカー押す美人が目に付く。美人はおれを見て怪訝そうに表情を歪める。おれがイケメンでも同じ面するかよ。舌打ちに怒りを籠めた。前を行くお婆さんに困った顔で見られた。
  取り敢えず全品百円の文庫本のラックをおっさんの隣で漁るが、何が欲しいわけでもなし。だがちょっと、ミステリーが欲しくなった。でもおれの目的はミステリーじゃない。劇的に人が死なない構成が施された世界の何か。確かにおれの眼前の世界に存在する何か。それが欲しくて欲しくて、ここに来たんだ。
  おれは特異な人間じゃない。何処にでも在って記号で以て「おれ」と割り振られただけの生き物だ。それなら、先人の中にだっておれと同じ状況にあり同じことを考えている奴は幾らでも居る。おれはこの古本街に、同志を求めているのだろう。九段坂を下りくだり、おれはおれを導く死者に会いに来た。とことん叙情的に、感傷的に言うならおおよそそんな感じじゃねえか。
  だが、どうもこじ付け臭い。きっと本当に目的なんかねえんだ。レポート書きたいっていうのはただの口実で、おれはただ歩きたいだけなんだろうな。生きていたいだけなんだろうな。
「読ませてもらったよ」
   六尺五寸で体重三桁の入道が、おれの横について歩いている。だからさっきの美女に眉寄せられたんだな。お前の所為か。
「あんまり文章がつらつらと続くものだから、読みにくいね。もうちょっと台詞を入れた方がいい。君の独白だから仕方がないのかも知れないが、短編なのにストーリー展開もない。ただ意味のわからない表現を使って雰囲気を作ろうとしてる。自己満足の臭いがぷんぷんするよ。所詮は昇華行為だね。自慰と変わらないよ。こんなものを読まされる人間の身にもなってもらいたいね」
「別にいいだろうが。おれのことなんて」
「その意識がいけないんだ。君は人に理解されたい癖に、理解される努力をしていない。認められたいんだろう。ずっとそうだったんだ。あの弱々しい火は、君の最高の努力だったのか?」
「他にやりようがあったのかよ」
「なかったと思っているのか?」
「なかった」
  入道はくぐもった笑いを発してにやにやおれを見下してきやがる。濃い髭面を真っ青に染めている。落ち窪んだ目は金色だった。何だか寒気がして背が震えた。こいつは他の連中とは違う。まじで妖怪なだけはある。おたくっぽいけど。
「やってしまったものはしょうがないけどね。君のお陰で、家族も団結したようだし、結果としてはよかったかも知れないね」
  腑に落ちなかった。
「は?」
「君という敵を得て、団結したのさ。彼らは大事なものを沢山失ったからね。可愛い妹も、お宝の本を失くして泣いていたよ。そうして君がひとりで仇役を担うことで、彼らはまた、君の言う在りし日の姿を取り戻した。君は居ないけどね」
「馬鹿か」
「自然の成り行きだと思うがね」
「お前が馬鹿なんだよ。嘘吐くな」
「嘘じゃないよ。君も自覚があった筈だがね。君の家族は譲歩なんかしていない。君は家どころか、アパートにも学校にも帰れないよ。警察が張っているからね。放火犯を捕まえる為にね」
  おれが他人の情報を鵜呑みにするほどの阿呆に見えるのか。節穴め。阿呆入道が。そんな出来事はおれの人生ではない。おれは特異な人間じゃない。そんな目に遭う筈がない。
「信じないのならいいよ。君の人生だしね。どうしようと君の勝手だ。君の信じる家族というものは、君の罪を暴いたりしないんだろう?それでいいよ」
  青入道はマルボロブラックメンソールをふかして嗤う。都条例違反だ。爺の化け物には不似合いの鮮烈な黒のパッケージだった。本当は見た目よりも若えのかも知れない。おれにも一本薦めるが、煙草は飲まんので断る。
「今の君に火はまずいね。この街に火をつけたら、一瞬で総て灰にまってしまう。火は怖いね。燃やされたりしたら堪らない」
  遊郭が凄え燃える映画が頭が過る。あれよりも燃えような。おれも巻き込まれて死ぬかも知れん。
「おれはここが好きだから」
「あの家も好きだっただろう」
「いや」
  どう考えてもおれがあの家を愛していたとは思えない。今おれに在る思いは郷愁じみたもので、届かない過去に楽園を見出そうとしているだけだ。
  おれを包み育んだ奴らに、家族という普遍の概念を見出そうとしているだけだ。
「君が何と言おうともね。君は彼ら自身を愛していたんだよ」
  むかついてる筈なのに全身はきんきんに冷えて変な汗が落ちた。結露してんのか。融解が始まってんのか。
  こいつはおれを虐めに来たんだな。青入道が本来何する妖怪なのか知らないが、元々山に住んでるような奴がこんな街中に下りて来ている時点で狂っている。おれを虐める妖怪に成り果てたとて不思議ではない。下らん生き物になったものだ。
「彼らも君を、愛していたんだ」
  愛なんて薄ら寒い。信じられねえワードベストスリーには入る。それを恥ずかしげもなく、それどころか好んで使うこの阿呆入道は頭の芯までおめでたいものを詰め過ぎて底の方から腐っちまってるんだ。あれは傷み易いもんだから。
「だから君に裏切られたような気がしたんだね。君は公平で頼りになったから。結局、家中の精神的な支柱になっていたんだよ。それを君、あれは裏切りだ」
「おれはそんな出来た人間じゃない」
「それを皆、気付いちゃいなかったのさ。理解されないというのは辛いね。君が苦しんでいるだなんて、誰も知らなかった。君が口にしない所為でね」
「うるせえんだよ。人の家のことに口出すな、糞入道が」
  きっと横を見れば、古本屋の窓ガラスにおれの青褪めた髭顔だけが映った。中の店主と目が合って気まずいので、ラックから本を物色する振りをする。
  どうしてこんなに阿呆入道の言葉にむかついてんのか知らん。きっと図星なのだろう。おれも腹の何処か、或いはもっと表層の方であいつらを心から信頼していたんだ。だからこんなにむかつくのだ。おれがそういう感情を抱えていることを、あのブルーマンに見破られたのが悔しくてむかついてんだ。
  感情がぶれまくりだから、手元の本もよく見えん。背表紙を眺めている内に、何だか知らんが手が震えてきた。今更何だ、とは思うが精神衛生上宜しくない事態が頻発し過ぎてんだ。手くらい震える。何しろあの阿呆入道の言うことが本当なら、おれの人生はもう見せ場なのだ。クライマックスだ。いい大人だって、全身がたがただ。
  大学も中退するようになる。折角ゼミ受かったのにな。レポート書かなくてよくなったね。油彩画は当分お預けだね。糞が。何て人生だ。いいことなんてなかったよ。涙が出てきそうなのに口の周りが痙攣して笑みの形を作っている。こんな面でこんな場所に居られない。しかし帰る場所もない。誰も居ない。乾いた本ばかり。
  おれは痺れそうな手をポケットに突っ込む。チャイルドレジスタンス機能がばっちりの糞固いライターに指が触れる。背表紙の文字が踊る。おれは。
  おれは死ぬ。


        ◆アルターエゴ


  家庭の。
  ごたごたと試験期間が重なっていた。何もかも投げ出して、家庭菜園でも始めたくなってくる。課題を終えなくちゃならないのに材料もないから、九段下から神保町の方に向かって歩いていた。
「偶然」
  この人はいつもここに居るから、偶然でも何でもない。
「変な顔しちゃって。どうしたのよ?」
  人間、下半身がぶち切れてもこんなに陽気で居れるものだろうか。尊敬すべきなのだろうか。
  いつもいつも、ここを通る時は妙な化け物を沢山見る。ここしか出ないから、幻覚というのも違う気がする。だからといって幽霊を見る才が今更芽生えたとも思いたくない。
  動く寿老人の銅像、目が二枚貝の老婆、階段を落ち続ける少女。そのどれもがこちらの存在を意識し、干渉してこようとする。彼らに会うと、不思議と既視感のようなものを覚える。
  嫌悪感かも知れなかった。
「多分、そうなんじゃねえのかな」
  黒い、大きな影の塊が語り掛けてくる。頭の中を読み取られているようで、ぞっとした。
「怯々んなよ。食ったりしねえから。お前、何探しに来たの」
「何も、決めてはないです」
  影は潜めた声で笑う。
「逃げてきたんじゃねえのか」
「え?」
「経験則だ。おれはそうだった。お前も、よく考えてみろよ」
  嫌だ。この人と話していたくはない。
「嫌な筈ないだろう。お前も追われてきたんだろ。なあ、ちょっと歩きながら話さねえか」
  影がのそりと立ち上がる。入道雲のように聳え立つ。黒い焦げがばりばり剥がれて、真っ青の皮膚が覗いた。
「まだ帰れねえだろう?」
  髭面の妖怪はにやりと笑って、ポケットに突っ込んだそれを、確かに見たのだった。


        ◆終
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# by caramel_box02 | 2012-06-21 20:37 | みっじかいの(縣)

ルナティック


「変な顔してるな」
 二十年に一度の年だというので焦燥感に襲われている。二十年しか生きていないし、来年地球が滅ぶことは確定事項なので俺が体験する二十年に一度はこれが最後なのだ。
 それは世界が共有する焦りであったらしい。タケウチが言うのだから間違いない。タケウチはここらで一番の秀才だし、親父は外交官でお袋はウシガエルから夜尿症の特効薬を作り出した人だ。都会からタケウチと婆ちゃんとで疎開してきたが、まだ大学に籍は置いているらしい。同い年なのにかなり額が広い気がするが、結構端正な顔付きだから女には事欠かない。遊び人だった。
 そのタケウチが言うのだから間違いない。この一年は、とても大事な一年なのだ。
 その所為で生じる遣り切れない居心地の悪さに苦しめられている。一年は短い。あっという間に俺たちは死ぬ。でも何をすればいいのか、皆目見当も付かない。取り敢えず今晩は通夜だ。予定の入っている日なら、こうしてモニターを睨んでいても罪悪感を覚えない。
 両親は二十年に一度だからと言って、よく外出した。冷え切った夫婦仲も気持ち悪いくらい沸かし直されて、やばい薬でもキメてきたかのような面して帰ってくる。にやにやへらへらして、そんな阿呆面引っ提げて余所さまに会ったのかと思うと不肖の息子ながら恥ずかしい。でも今は何処も、そんなもんだと聞く。
 俺はこの二ヶ月くらい靴に足を通していない。タケウチも似たようなもんだとモニターの中で言っていた。しかし向こうは婆ちゃんを介助しなくちゃならないから、きっと俺に合わせて方便を言ったんだ。俺の世界は今、気持ち悪い両親とパソコンの向こうのタケウチだけで構成されている。それでも手に余る。要らないものが多過ぎる。
 必要なものがない。
 だが必要なものはない。
「江莉子ちゃんに会ったよ」
 江莉子は県会議員の娘だからちょっと高慢だ。でも仲良くなれば結構いい奴だから俺は江莉子のことが、多分、好きなのだ。さらさら鳴る黒髪に悪戯で指を通した時、俺は気付いた。俺はその夜中々眠れなかった。
 江莉子は楽園を求めていた。だからいつも憂いを帯びた目をしていて、俺は見る度寂しいような悔しいような気分になる。
 奴は馬鹿だ。この地上の何処にもユートピアなんかない。そんなものは幻想に過ぎないのに、この世に甘んじる俺たちを見下している。
 タケウチが来てから、余計にそれは激しくなった。江莉子はあいつを楽園からの使者と勘違いしているのだ。あいつはただの半端者だ。もう何処でだって、暴動なんか起きちゃいない。なのに都会に帰ろうとしない。おかしいじゃないか。
 しかしユートピア思想も大分流行りものらしい。江莉子ばかりが馬鹿とも言えない。薄ら馬鹿のような連中が世にごまんと居るのだ。そしてきっと俺もその中のひとりだ。だから二十年に一度にこんなにも脅かされている。
「美人だね。お前のこと話した」
 俺は俺の悪徳を嫌になるくらい自覚している。話されて楽しいことなんてない。
「馬鹿な幼馴染みだって。いいね、そういう関係」
 お前は何もわかっちゃいない癖に。時が経てば幼馴染みなんて関係は自然に構築されていく。問題は馬鹿の方だ。あいつは俺を厭い憎み忌み嫌っている。俺の悪徳を誹り罵り軽蔑している。それが馬鹿の一言に凝縮されている。情あっての馬鹿ではない。何故ならあいつは江莉子だからだ。
 だが俺はもう江莉子の声すら思い出せない。
「俺のこと好きだって言うからさ」
 江莉子が美人であったか定かでない。
「実は」
 美化した思い出に縋り付いているだけだ。
「昨日ね」
 モニターに映った俺の顔が醜く歪んでいる。確かに、変な顔してるな。

 ●
      
 爺さんは無抵抗だった。最初こそ口にガムテープを貼っていたが、あんまりにも無抵抗だから気の毒になって今は外している。
 俺が喋らねえと波の砕ける音と海鳴りだけが廃墟になった海の家に響いて、寒々しい。海ってこんな場所だったかな。盛りを過ぎれば忘れられたも同然なのか。
「爺さん」
 耐え切れず口を開く。
「婆さんどうしたんだよ」
 爺さんは椅子に括り付ける縄に身を預けるようにして、俯いたままだ。
「おい」
 ぴくりともしない。
「爺さん、死んだか?」
「ああ」
「生きてるわ。いい加減にしろよ。逆らったら殺すからな」
「ああ」
「理解出来てんのかよ。ボケた振りすんな」
「ボケる歳に見えるのか、糞餓鬼」
 喋ったと思ったらこれだ。銃向けられた人間の態度じゃねえよ。最近の爺さんの度量はどうなってんだ。狂ってんのか。
 仲間が戻るまであと三、四時間はある。へましたら無線に連絡が入るようになっている。
 順調に事が運んでいるのか気になるが、俺の役目は爺さんの監視だ。一番楽で、一番面白くねえ。おまけに俺は銃なんざ撃ったことはねえから、屈強な爺さんに抵抗されても撃てる筈がない。度胸が足りない。出来るなら人殺しは御免だ。下っ端から脱却出来ない気がしてきた。
 希望はないし、先はない。来年訪れる死までの冒険に過ぎないから、下っ端でも何でも構わない。一期は夢よと聞いたから、先人に倣うことにした。俺の人生にオチを付けたいんだ。逃避でも悪足掻きでも暇潰しでも、どうとでも名付ければいい。台詞のひとつもなく主人公に撃ち殺される奴、あれが俺だ。
 その志のない下っ端に教えられている情報なんか皆無で、この爺さんがどんなに凄え奴なのかも全くわからん。俺にはただの、元漁師のおっさんにしか見えねえが。
「煙草吸うかよ」
「ハッカは」
「ハッカ?」
 爺さんは呆れたように鼻から長い息を吐き、またむっつりと黙り込んだ。ハッカって何だっけ。首を傾げながら火をつけて、唯一開け放した厨房の小せえ窓に向かって煙を吐き出す。
 そろそろ陽が沈み出す時間帯だ。月が海から昇るものかわからん。夕陽が沈んでじゅっと鳴る、とかいう詩的な表現は古典の教科書で餓鬼の頃読んだが、月が昇っても何も鳴らねえだろう。あの衛星は多分冷たい物質の塊だ。真昼の青空に霞む月に、俺は触れたことがあるような気がした。まともに見たことすらない癖に。
 しかし、二十年に一度なのか。やばい依頼を熟しているとは思えない程ぼんやりとした頭でふと思い出す。二十年生きてきて、最初で最後の二十年に一度だ。そう言われると見たくなくなるのが俺だ。
 今日は、見れるだろうか。
「爺さん」
 返事はない。
「外見る?」
「いい」
「何で。もう見納めかもよ?」
「あんなもんは見ても虚しくなるだけだ」
 そうか。こいつは知ってるんだ。おれの知らない二十年前を。
 でももう二度と、二十年に一度は来ないんだ。地球が終われば、あれも終わる。共に死んでいくあれに思いを馳せたって、無理もねえよ。
 俺が生まれた頃は地球の何処も、暴動やら犯罪やらで荒廃していた。なのにこの一年は、俺たちも最後に輝いてやろうぜなんていうチープな文句が流行して、俺の知らない日常が取り戻されつつある。理由は阿呆臭いが、結果オーライだ。いかれた商いがマイノリティである世の中を守ったのだから。
「ロマンチックな爺さんだな。ただ在るものをそのまま受け入れればいいんだよ」
「欺瞞だ」
「悪いかよ」
「偽物だ」
 爺さんは言葉が足りない。俺がわからねえのを承知で言ってるんだ。爺さんと俺の言語は違う。爺さんはハッカを言い換える為の語彙を持たねえし、俺はそれを理解する為の基盤を持たん。同じ環境に生きたってそういうことはある。
 俺と爺さんの間には深い溝がある。越えられねえ壁がある。
 越えてどうすんの。
「偽物の何が悪いんだよ」
「わからんのか。哀れな若者だ。希望を持て。自棄になるのが格好いいと思うな。生きろ。お前はまだ生きている」
「ケンシロウ?」
「ああ」
 温厚な俺もちょっといらいらしてきた。優位に立つのは俺の筈なのに、何だか爺さんの手玉に取られているような気がしてならない。
「爺さん、あんたずっとそんなんなのか」
「ああ」
「子供に嫌われてたろ」
「だからこんなことになっても、心配されない。気楽だ」
 爺さんは自嘲臭い笑みを浮かべる。とうとう笑いやがった。己の生殺与奪を握る人間が眼前に在りながら、だ。
「あんた狂ってるよ」
「昨日もそう言われた」
「誰に」
「娘に」
「何で」
「婆さんを殺したからな」
 俺は何だかでかい声をあげて一歩跳ねるみたいに退いた。ぴょんっと。漫画みてえに糞真面目に飛んだ。
「嘘だろ」
「つまらん嘘だな」
「まじかよ」
「事実ではある」
 感嘆の息が洩れた。俺の予想の斜め上を行く爺さんだ。やはり被害者と加害者なんてコインの表と裏なんだ。状況と契機でどちらにでもなり得る。転び方次第だ。今回偶々俺が加害者、爺さんは被害者になった。頭ん中で十円玉がぐるぐる回る。
「動機は」
「嘱託殺人だ」
「食卓?」
「頼まれたんだ、婆さんに」
「頼まれたからって殺せるかね?」
「銃なんか握っておいて、随分情け深いな」
「違えよ。可能か不可能かじゃなくて、人に頼まれたからって人生棒に振るようなこと出来るかってことだよ」
 爺さんは一瞬目をかっ開いて、頷きながら俺の顔をしげしげ見つめてくる。俺は何かおかしなことを言っただろうか。至極真っ当だと思う。犯罪者の耳には痛いか。
「お前はどうなんだ」
 耳に痛いご意見だ。
「俺はあれ。若いからいいのよ。分別の付かねえ若者だから。格好よく死んで、終わるよ」
「笑いごとじゃない。お前の先を考えろ。真剣に。大事なことだ。お前はまだ生きてるじゃないか。テロリスト気取ってどうする?」
 テロリストじゃない。偶然俺たちに破壊活動の依頼があっただけだ。俺たちはただの、諦観した振りしたチンピラ集団なのだ。
 今回の依頼だって、金目的で受けたわけじゃない。何かでかいことをやってから死にたかっただけだ。
「あんたに説教される筋合いはねえよ。人殺し」
 むかつく爺イだ。俺のことは俺が一番よく知っている。どうしようもないって気付いてる。どう足掻いても行き着くのは、来年の終末ではないか。他の連中が日常に、二十年に一度に逃げるのと同じように、俺は捨て鉢な方向に逃げてんだよ。
 怖かったんだ。俺の知らない平和の元で生きていける自信がなかった。なら死に逃げる方が、ずっと楽だ。
「人殺しの含蓄ある言葉だと思えないのか」
「頭沸いてんのか、爺さん」
 こいつは刑期を終えてんだろうか。頼まれて殺ったんじゃかなり酌量の余地があると思うが、爺さんにやつれた様子が全くないから刑務所暮らしも疑わしい。全てはたった一週間前の出来事で、逃走五日目くらいだったらまだわかる。それでこの精神状態なら、やっぱり爺さんは狂っている。
 あと三時間もこうしてふたり切りなんて、最悪だ。失敗でも何でもいいから連絡はないもんかと無線機に目を遣るが、それで鳴る筈もない。順調なら、結構。
 煙草はろくに吸わないまま燃え落ちていた。長い溜め息を吐きながら痛んだプラスチックの椅子に腰掛け、もう一本火をつける。ハッカって、あれだろ。飴だろ。俺あれ嫌いなんだよな。爺さんは煙草より飴が欲しかったのか。
「一本寄越せ」
 爺さんもちょっと気まずいのかも知れん。タイマンの距離感というのは繊細だ。しかしもっと被害者然としろよ。
「ハッカじゃねえぞ」
「それがいいんだ」
「いや、ハッカって何だよ。飴?」
「違う。女の吸うのあるだろ」
「あ、何。メンソール?メンソールじゃねえよ。何だ、ハッカってメンソールかよ」
 言語の壁を越えた。まさにメンソールの清涼感。そうかそうかと納得しながら腕だけ解いてやる。
「いいのかよ」
「逃げねえだろ」
「人殺しだぞ」
「何とか殺人なんだろ。いいからもうさ、ほら、ライター」
「つかん」
「何か上に突起あんだろ。それ押し込みながらつけろよ」
「あ?」
「手の掛かる爺さんだな」
 必要以上に近寄って火をつけると、爺さんの口角が微妙に持ち上がる。心内が透かされたような気がした。やっぱり縛っておけばよかった。
 爺さんは思い切り煙を吐いてから、悪いなと悪びれずに笑う。こいつを虜と思うのはやめよう。こいつは近所の老人だ。殴られたら死ねるくらい逞しい、ただの人殺し老人だ。泣きたくなってきた。
 小屋いっぱいに煙を満たし、いい加減に月が出るかとふと思う。味の素の主成分よりもどうでもいい存在が、今日はやけに気に掛かる。生来の気質なんだろう。久々の静かな夜に感じる寂しさを、もっともっと寂しいもんに託して誤魔化したいんだ。煙草がいつもよりも早く燃え尽きてしまったような気がした。
 爺さんの腕をまた縛らねえと、と頭の端では思いながら背もたれに身を預けて煙の消えて行くのを眺めていた。窓から差す光を受けて濁って揺らめく煙は美しい。
 ゴミも塵をも輝かせる光は尊い。でも本当はゴミも塵も人が作った概念に過ぎない。そのどちらもが真実だ。
「ああ、嫌だ」
 アンニュイな思春期はとうに卒業したのに。思考法が変わっていない。それが美しいものだとさえ思っている。
「嫌だろうな」
「嫌だよ。俺は間違ってないよな?」
「自分で判断しろ」
「してるよ。でもわかんねえんだ」
「客観的に見れば、今のお前は自棄糞って言葉を借りて前を向くことから逃げている臆病者だ」
「どうせもう前なんかねえじゃねえか。地球滅亡するって、爺さん知らねえのかよ」
「しないさ」
「は?」
 埃を掻き乱したような雑音が鳴る。散々ざあざあ言ってから、小さな声がした。先輩の声だった。反射的に立ち上がる。
「は、はい」
『ああ、糞。内田がとち狂った。ミサイル全部無駄撃ちしやがったわ』
 先輩の荒い呼吸がうるさくて聞き取りにくい。必要以上に危機感を煽る。
「い、一発もないんですか」
『ない。達成は不可能だ』
「ど、どうするんですか。そんなこと」
『お前にしか出来ない。頼まれてくれ』
「は。何をしたら」
『何でもするか』
「今更何です」
『よし、死ね』
「何ですか?」
『死ね』
「し?」
 死ね、と先輩は繰り返した。
『俺たちの役目はもう終わりだ。こんだけ暴れておけば依頼人の言う反体制的暴動ってやつはクリア出来たんじゃないか。あとはもう一息だな』
 何を言っているのかわからない。既に失敗したんじゃねえのか。
『依頼の目玉だ。衛星管理棟の破壊だ。あれさえ壊れればミッション達成、その混乱に乗じて俺たちも逃げられる。悔しいが最終手段だ。死ね』
「意味が」
『爺さんを脅せ。俺たちはもう遣り切った。衛星管理棟を破壊しろと』
「それで」
『あとは爺さんに任せろ。どうせ俺たちは来年死ぬんだ。今更何びびってんだよ。死は誰にでも訪れる。生と死にボーダーはない。お前いつも言ってただろ?死にたいって。今がその時だよ。俺たちもどうせもう直ぐ逝く。心配するなよ』
 そんな言葉が聞きたいんじゃない。唐突に過ぎる。手に汗が滲む。
『わかったな。お前に任せたからな。今生の別れだ。頼んだぞ』
「は」
『頼んだぞ』
「はい」
 ぶつり、と通信が途切れた。先輩が切ったんだろう。切れたわけじゃない。切ったのだ。俺に全てを託した。押し付けた。
「爺さん」
「残念だったな」
「わけわかんねえんだけど」
「笑いごとじゃない。お前のことだ」
 爺さんは目を細めて俺を睨む。頭が回らねえ。だらしない笑いが口を突いて出る。
「あんた何なんだよ」
「人殺しの超能力者だ」
「ここに来てエスパーとか、ねえだろ」
「最初からエスパーだから仕方ない」
「何が出来んだよ」
「物体と人間を同調させて破壊する能力だ。人間がリモコンになって、それを殺せば物体は壊れる。逆も可能だ。だから人殺しの超能力だ」
「嘘だろ」
「つまらん嘘だな」
「まじかよ」
「事実ではある」
 先輩はハナからこのつもりだったんだ。だから俺をここに配置した。下っ端の使い捨てだから。ムードに流されて先を捨てる馬鹿だから。
 そもそも作戦にだって無理があった。内田さんがしくじらなくたって、俺たちみたいなチンピラが武器持ったところで、何が出来るんだ。
 先輩たちは始めから、集団自決がしたかっただけだ。俺と変わらない。行動的だっただけだ。俺よりもずっと現実的なスピードで、先輩たちは格好よく死のうとした。
「で、俺を殺して管理棟を壊すってことか。信じらんねえ」
「何がだ」
「全部だよ。馬鹿じゃねえの。何で俺に任すの。俺は誰にも知られねえまま爺さんに殺されんだ。超能力爺さんに」
「超能力は信じるのか」
「信じたくねえよ」
 こんな汚ねえ、何処にでも居るような爺さんが超能力者だなんて信じられない。
「なら信じるな。超能力なんか存在しない」
「どっちだよ」
「お前が決めろ。死ねば本当かわかるぞ。死んでみるか」
 冗談なのか本気なのかわからない。冗談だって関係ない。俺は死なねばならない。俺は託されたんだ。どうせ捨てた命。今更惜しいか?
「汗だくだぞ」
「涙だよ。毛穴から涙が出てんだ」
「何で」
「こんな死に方するだなんて思ってなくてさ」
「死にたいのか?」
 爺さんはいつの間にか脚の縄も解いてやがって、俺の座っていた椅子にもたれて首を傾げる。
「どうなんだ?」
 どうせ消える命。今更惜しいか?名残はない。ここで死に損なえばまた苦しむ。それでも俺は思ってしまう。
「・・・・人生左右する結論出すには早急過ぎねえか」
「同感だ。お前は何もかも早過ぎるんだ」
「でも先輩たちが待ってる」
「お前自分で言ってたじゃないか。人に頼まれたからって人生棒に振れるかよって」
「逃げろって言うのか」
「逃げて何が悪いんだよ。赤穂浪士って知ってるか。忠臣蔵の。あれにはな、討ち入りの直前に逃げたって言われてる奴が居るんだ。不義士とか言われたりもするけどよ、だからなんだよ。討ち入り果たして人殺して、腹切った奴が偉いのか、生き延びた人間が悪なのか。誰が結論を出せる?」
「自分だ」
「そうだろ?」
「乱暴だな」
 歴史の話すりゃ説得力になると思ってやがる。それでも俺を励ますのは、きっと、俺がその言葉を強く欲していたからだ。何処までも日和った下衆だ。それでもまだ、生きている。
 爺さんはおかしそうに笑って、追い払うように手を振った。
「遠くに逃げろよ。衛星管理棟が無事な限り、お前は無事じゃ居られないだろ。ぶっ殺されるかも知れないぞ。例の先輩らに」
「爺さんは」
「いいから早く行け。生きてる内に」
 急かされるまま身ひとつで、風化しかけた木の戸を開き砂浜を踏む。静かな潮騒が仰々しく響く。遥か遠く、青い海の上に船が一隻浮いていた。見知らぬ街に放り出されたような心細さがどっと襲ってきて、暫く歩けずに居た。
 ポケットに手を突っ込んで、一本切りになった煙草に触れる。ライターがない。小屋に忘れたらしい。ライターごと爺さんにくれてやろう。つけられないだろうけど。振り返り、再び戸を開けた。
「爺さん、餞別だ」
「あ?」
「は?」
 窓から差す陽光に遮られてシルエットだけになった爺さんは、間抜けに口を開いたような気がする。
「戻るの早いだろう。折角格好付けたのに」
 不服そうに呟いた手に、見覚えのあるものが握られていた。
「俺の」
「物騒なもん忘れて行くなよ」
「何してんだ」
「自己犠牲ってのが好きじゃないんだ」
「は?」
「後悔してるんだわ。婆さんを殺して隕石を壊して、孫の生きる世界を守るよりも、婆さんと一緒に死を待つ方が俺はずっと幸せだったろうってな」
「え?」
「でも婆さんは心から、自己犠牲を望んでた。羨ましかったよ。俺なんかは、生きてる方が尊いって、そうとしか思えないんだ」
「それでいいじゃねえか。なあ」
 爺さんの口唇が俺の知らない誰かの名を呼ぶ。
「餞だ。これでちゃんと本物の月の下で、大手振って歩けるな。そういう生きてる感触を大切にしろ。土の匂いとか、旨い飯とか。もう夕食時だな。腹が、減らないか?」
 手元が弾けるように光って、俺の背後で何かが弾けた。不意に瞑った目を開けた筈なのに、何故か煙草と硝煙の混じった臭いが鼻を突いただけだった。闇の中で手をおろおろと振り回して、小屋の扉を何とか開ける。
 青白く冷たい砂浜を、掌で踏み締める。俺の知らない冷たい光が、砂浜からゆっくりと小屋を侵していく。長かった今日が、
「終わった、のか」
 仰いだ空には二十年に一度の。

 ●
 
「実は昨日ね、江」
 かちんと音が鳴って、ネットワークが切断された。モニターを睨む変な顔の俺と目が合ってしまった。溜め息を吐いてモデムを少々いじるが、通信が再開される様子はない。
 窓に目を遣れば目を瞑ったような暗闇。街灯ひとつついていない。当然だ。二十年前からあれはオブジェだった。
 地球の終わりが前倒しされたのか。しかし家々の灯りは消えていない。衛星がやられたのかも知れない。
 終末騒ぎで起こる暴動を鎮める為に政府がとった対応が、人工衛星による統制だった。全てのネット回線はひとつの人工衛星を通り、二十四時間体制で危険分子を排除する監視が行われている。また夜の闇に乗じて行われる犯罪の数を鑑み、その衛星に照射機能を搭載した。
 夜でもまるで昼のように明るい。
 恐怖だった。狂気だった。
 でも直ぐに順応した。夜なんか邪魔にしかならないくらいの奴も居る。忙しない風潮が根付いていたから。
 歴史の教師は二十年前の日本をそう語った。寂しげに、目を細めた。
 どうも夜が来たらしい。
 鍵を開き、階段を下る。慌ただしい声が飛び交っている。俺を見ると、的を絞った蜂みたいに突っ込んでくる。
「悠、衛星管理センターが爆発したって」
「おい、これからお義母さんの法事だろ。どうするんだ」
「で、出来るわけないから!こんな暗いのに、出歩けないでしょ!」
「ヒステリック起こすな!落ち着け」
「ああ、あの気狂い親父の所為!何処行ったのよ、早く捕まって、死刑にでもなればいいのに!」
「おい、悠の前でそのこと言うのはやめようって」
 下駄箱に手を突っ込む。革の匂いを避けて、真新しいスニーカーをしっかりと掴む。
「悠!何処に行くの、悠!」
「危ないから出るな、こら!」
 暗い。暗い。明るい。明るい。
 俺の知る闇も光もこの夜にはない。
 とうの昔に失われた静謐に俺は在る。
 変にほっとするようで、焦燥はなかった。
 冷たい地を踏み、俺はゆっくりと丘を昇る。
 黒の中に浮かぶ円はやっと光を取り戻す。
 二十年に一度の大接近の迫力で以て。
 少しだけわかったような気がした。
 あれは確かに、届かない楽園だ。
 息を荒げて、丘を駆け上がる。
 履き慣れない靴の違和感。
 生きているその感触。
「久しぶりだね、悠」
 穏やかな今日が、
「久しぶり」
 始まる。

 

 ● 
               
     
                 fall■おわり
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# by caramel_box02 | 2012-06-21 20:35 | みっじかいの(縣)