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アルターエゴ



◆アルターエゴ


家庭の。
ごたごたと試験期間が重なっていた。死ぬか殺すかの境で油彩画でも始めたら少しは救われるだろうかと腹の中だけで考えている。レポートが四本も溜まってんのに、材料もないから九段下から神保町の方に向かって歩いていた。
材料どころか、実際は何も思い付いちゃいない。捻り出すつもりで手に持ったペンはくるくる回って紙を汚す。今朝はもう何も考えられなくて、髭も剃り忘れた。それでも、ただ座っていられるだけの余裕もまだない。何かに追われているようで、何処にも居られなかった。
「偶然」
偶然を装った血塗れの男がおれを呼ぶ。こいつは昭和館を背負って建つ交番の前でずっと信号待ちしてやがる。脚がねえからそこから動けねえんだ。お巡りさんに助けてもらえばいいのに。
「何?四限終わり?これからどっか行くの」
何処にも行かねえのにこんな場所に居るのはお前くらいだ。
「いいなあ。俺もどっか行きてえなあ。いいなあ。羨ましいわ。お前何年生になったの」
おれは右の指を三本伸ばした。
「もうそんなになんのかよ。うわ、月日経つの早えわ。そりゃ俺だって老けるわな。怖え」
信号が変わったので血塗れ野郎から解放される。あんな態してる癖に、阿呆だから同情する気も起きない。ただ、あれに面が割れていると思うと何となく恥ずかしいような気分になる。
頭の長い爺の銅像が、向こうの歩道からおれを睨んでいる。こないだは九段下の方を向いて、キャサリンゼタジョーンズみたいなトリニトロトルエン火薬ボディの姉ちゃんを睨んでいた。この時間は愛煙家たちに囲まれて、煙たそうだ。千代田区は喫煙者に厳しい。あの爺さんの半径三メートルくらいは都会のオアシスってやつなのだろう。おれにはわからないが。
爺さんは七人乗りの船の乗組員らしい。こんな爺に船乗りやらせるなんて、酷だよな。生涯現役が空回りして軋み始めている。隠居させてやれよ。
七人みさきっていうのも水辺に出る七人組だが、こっちの方は超一流の殺し屋だ。各地で謂れがあるらしくてよくわからんが、見た奴はとにかく死ぬ。で、死んだ奴はその七人組に加入して代わりにひとり成仏する。人が殺せりゃ一抜けなんて物騒だが、餓鬼の作ったルールみたいでちょっと阿呆っぽい。
頭の上に首都高の陸橋が走る俎橋《まないたばし》を渡る。七人みさきは出ないが、緑色の日本橋川には目ん玉がシジミのシジミババアが泳いでやがる。二枚貝が変に黒光りする。
まことに解せねえが目がいいから、直ぐにおれを見付けて立ち泳ぎを始める。その時は貝殻がぱかっと開いて中の黄色いうねうねしたのがおれを見上げやがる。節穴の癖に。おれに難癖付ける腹なんだ。おれの一挙手一投足に文句を付けて、貶めるつもりなんだ。
確信がある。昨夜インスタントの糞不味い味噌汁を飲んだ。違和感があって噛んだシジミを吐き出したら、小せえシジミの肉は赤黒い血の色に染まっていた。口内は切れちゃいない。シジミは赤い血を持たない。シジミババアのことを思い出した。あいつにはめられたのだと思った。
出来るだけ早足で、それでも毅然とした風に俎橋を渡り切る。直ぐに糞短い横断歩道に出る。機を見て渡ってしまいたいが、微妙に車が続きやがっていけない。シジミババアの視線を背中に感じた。居並ぶリーマンを掻き割って、隠れる。婆の悪意を総身に受けて耐えられるような強い人間ではない。あいつは性質《たち》が悪い。同志を気取る馴れなれしい血塗れ野郎もおれを追うように睨む寿老人も、まだ可愛いもんだ。問題は目から水管伸ばすような輩だ。ああいうのは得てして、自分のことが見えちゃいねえ。
ようやっと信号が青になったので、喜び勇んで神保町へ歩を進める。実際は喜んでも勇んでもいない。あれから逃げて生きていけるわけでもない。でも今は逃げるしかない。いずれ、食塩水を用意する。
反対側の歩道にあった糞ボロい九段下ビルがとても好きだったのだけれど、昨年くらいにとうとう壊されてしまった。インターネットで見てみれば、勝手に入ることが出来たらしい。惜しいことだが過ぎたこと、最早更地と成り果てつ。でもまあ早々壊した方が、地震なんかで人が死ぬよりずっといい。
いつもそうだ。全てが遅い。気付けばもう、壊れている。でもまあ早々壊れた方が、人が死ぬより。ぐるぐる頭を駆け回る。これでよかったんだ。誰も死なずに済んだ。おれはずっと懸念していた。誰かが死ぬまでこれは終わらんことなのだと。その死ぬのはおれでもなく爺でも婆でもヒキニートの兄貴でもなく、まだあどけない顔して段ボールいっぱいに肌色の同人誌を隠していた可愛い妹なのだと。でもそんなご都合主義で悲劇的で独善極まった妄想ももう終わりだ。これがハッピーエンドだ。
そろそろ右手が古本街っぽい雰囲気を醸し出してくる。といってもまだ絵葉書とか筆とかが並んでる店があるだけだ。まだもうちょっと。凄え格好いい刀とかがラインナップされてる店の横に、古本屋が見えてくる。そのもうちょっと先にある芳賀書店の脇がもう神保町駅で、上手くやると九段下駅から視認出来るくらい近い。
駅の階段から立ち昇ってくる中学生はぶらぶらする腕と脚引き摺ってやっと歩いている。色々と折れているようだ。顔も痣だらけで、こうして昇り切ってもまたこの階段から転げ落ちるのだろう。そういう生き物なのだ。おれにはどうしようもない。彼女にもどうしようもない。無間地獄というものは案外身近にあるものだ。
「非道い人」
何かがおれの背後で囁く。
「いつも見えてるんでしょう、彼女のこと。それなのに、一度も助けてあげようともしなかった。あら、何?今日もまた逃げるのね」
おれが幾ら逃げたって、お前に責められる筋合いはない。おれにどうこう出来る問題ではないのだ。逃げるしかないではないか。だから、奴らには責める言葉がなかった。おれに罪悪感抱いてんだな。でもこんな時だけ団結力を見せて、じとじとした目で以て総員でおれを睨んだ。追うように。追うように。
おれは逃げたんだ。追われたわけじゃない。おれは。
おれがライター買ったのを奴らは知っていたのかな。情けをかけられていたのだとしたら、おれはもう道化と変わらんな。あいつらは、無意識の内に凄え譲歩したのかな。家族だから。薄っぺらい事実の為に。
灰燼となってしまったおれの部屋には好きな映画のポスターやら本やらがあって、でもおれの日常を彩ったそういうものは消えてしまえば枷でしかないことに気付く。またあれが欲しい。あれを買いたい。おれはまたあの部屋を再現しようとしている。果ては将来家庭を持って、あの家を再現しようと努めるかも知れない。ありそうで、やりそうで、口惜《くや》しかった。あれに愛情を抱いているだなんて思いたくない。でもおれが本当に求めているものはあれなのかも知れない。おれが憎んだあれの、在りし日の姿を、何よりも求めているのかも知れない。
でも美化しても美化しても綻びだらけの絵にしかならんね。こんなものが欲しいなんて、おれもどうかしてる。
これが家族なんだっておれは寸分も思わないけど、或いはホタルが綺麗なのと同じ理由かも知れん。暗い中じゃただ光るもんしか見えないから、幽玄な感じで舞うホタルは妙に心に来る。でも明るい空の下で光ってねえホタル見ても、ただの昆虫だ。おれは今相当暗い場所に居るんだな。
そろそろ右手には古本屋、左手には飯屋っていう並びが続き始めて、世界一の古本街っぽい景色を呈してきた。スーツ姿の爺さんが目に付く。それよりも超スレンダーで緩いティーシャツ着てベビーカー押す美人が目に付く。美人はおれを見て怪訝そうに表情を歪める。おれがイケメンでも同じ面するかよ。舌打ちに怒りを籠めた。前を行くお婆さんに困った顔で見られた。
取り敢えず全品百円の文庫本のラックをおっさんの隣で漁るが、何が欲しいわけでもなし。だがちょっと、ミステリーが欲しくなった。でもおれの目的はミステリーじゃない。劇的に人が死なない構成が施された世界の何か。確かにおれの眼前の世界に存在する何か。それが欲しくて欲しくて、ここに来たんだ。
おれは特異な人間じゃない。何処にでも在って記号で以て「おれ」と割り振られただけの生き物だ。それなら、先人の中にだっておれと同じ状況にあり同じことを考えている奴は幾らでも居る。おれはこの古本街に、同志を求めているのだろう。九段坂を下りくだり、おれはおれを導く死者に会いに来た。とことん叙情的に、感傷的に言うならおおよそそんな感じじゃねえか。
だが、どうもこじ付け臭い。きっと本当に目的なんかねえんだ。レポート書きたいっていうのはただの口実で、おれはただ歩きたいだけなんだろうな。生きていたいだけなんだろうな。
「読ませてもらったよ」
六尺五寸で体重三桁の入道が、おれの横について歩いている。だからさっきの美女に眉寄せられたんだな。お前の所為か。
「あんまり文章がつらつらと続くものだから、読みにくいね。もうちょっと台詞を入れた方がいい。君の独白だから仕方がないのかも知れないが、短編なのにストーリー展開もない。ただ意味のわからない表現を使って雰囲気を作ろうとしてる。自己満足の臭いがぷんぷんするよ。所詮は昇華行為だね。自慰と変わらないよ。こんなものを読まされる人間の身にもなってもらいたいね」
「別にいいだろうが。おれのことなんて」
「その意識がいけないんだ。君は人に理解されたい癖に、理解される努力をしていない。認められたいんだろう。ずっとそうだったんだ。あの弱々しい火は、君の最高の努力だったのか?」
「他にやりようがあったのかよ」
「なかったと思っているのか?」
「なかった」
入道はくぐもった笑いを発してにやにやおれを見下してきやがる。濃い髭面を真っ青に染めている。落ち窪んだ目は金色だった。何だか寒気がして背が震えた。こいつは他の連中とは違う。まじで妖怪なだけはある。おたくっぽいけど。
「やってしまったものはしょうがないけどね。君のお陰で、家族も団結したようだし、結果としてはよかったかも知れないね」
腑に落ちなかった。
「は?」
「君という敵を得て、団結したのさ。彼らは大事なものを沢山失ったからね。可愛い妹も、お宝の本を失くして泣いていたよ。そうして君がひとりで仇役を担うことで、彼らはまた、君の言う在りし日の姿を取り戻した。君は居ないけどね」
「馬鹿か」
「自然の成り行きだと思うがね」
「お前が馬鹿なんだよ。嘘吐くな」
「嘘じゃないよ。君も自覚があった筈だがね。君の家族は譲歩なんかしていない。君は家どころか、アパートにも学校にも帰れないよ。警察が張っているからね。放火犯を捕まえる為にね」
おれが他人の情報を鵜呑みにするほどの阿呆に見えるのか。節穴め。阿呆入道が。そんな出来事はおれの人生ではない。おれは特異な人間じゃない。そんな目に遭う筈がない。
「信じないのならいいよ。君の人生だしね。どうしようと君の勝手だ。君の信じる家族というものは、君の罪を暴いたりしないんだろう?それでいいよ」
青入道はマルボロブラックメンソールをふかして嗤う。都条例違反だ。爺の化け物には不似合いの鮮烈な黒のパッケージだった。本当は見た目よりも若えのかも知れない。おれにも一本薦めるが、煙草は飲まんので断る。
「今の君に火はまずいね。この街に火をつけたら、一瞬で総て灰にまってしまう。火は怖いね。燃やされたりしたら堪らない」
遊郭が凄え燃える映画が頭が過る。あれよりも燃えような。おれも巻き込まれて死ぬかも知れん。
「おれはここが好きだから」
「あの家も好きだっただろう」
「いや」
どう考えてもおれがあの家を愛していたとは思えない。今おれに在る思いは郷愁じみたもので、届かない過去に楽園を見出そうとしているだけだ。
おれを包み育んだ奴らに、家族という普遍の概念を見出そうとしているだけだ。
「君が何と言おうともね。君は彼ら自身を愛していたんだよ」
むかついてる筈なのに全身はきんきんに冷えて変な汗が落ちた。結露してんのか。融解が始まってんのか。
こいつはおれを虐めに来たんだな。青入道が本来何する妖怪なのか知らないが、元々山に住んでるような奴がこんな街中に下りて来ている時点で狂っている。おれを虐める妖怪に成り果てたとて不思議ではない。下らん生き物になったものだ。
「彼らも君を、愛していたんだ」
愛なんて薄ら寒い。信じられねえワードベストスリーには入る。それを恥ずかしげもなく、それどころか好んで使うこの阿呆入道は頭の芯までおめでたいものを詰め過ぎて底の方から腐っちまってるんだ。あれは傷み易いもんだから。
「だから君に裏切られたような気がしたんだね。君は公平で頼りになったから。結局、家中の精神的な支柱になっていたんだよ。それを君、あれは裏切りだ」
「おれはそんな出来た人間じゃない」
「それを皆、気付いちゃいなかったのさ。理解されないというのは辛いね。君が苦しんでいるだなんて、誰も知らなかった。君が口にしない所為でね」
「うるせえんだよ。人の家のことに口出すな、糞入道が」
きっと横を見れば、古本屋の窓ガラスにおれの青褪めた髭顔だけが映った。中の店主と目が合って気まずいので、ラックから本を物色する振りをする。
どうしてこんなに阿呆入道の言葉にむかついてんのか知らん。きっと図星なのだろう。おれも腹の何処か、或いはもっと表層の方であいつらを心から信頼していたんだ。だからこんなにむかつくのだ。おれがそういう感情を抱えていることを、あのブルーマンに見破られたのが悔しくてむかついてんだ。
感情がぶれまくりだから、手元の本もよく見えん。背表紙を眺めている内に、何だか知らんが手が震えてきた。今更何だ、とは思うが精神衛生上宜しくない事態が頻発し過ぎてんだ。手くらい震える。何しろあの阿呆入道の言うことが本当なら、おれの人生はもう見せ場なのだ。クライマックスだ。いい大人だって、全身がたがただ。
大学も中退するようになる。折角ゼミ受かったのにな。レポート書かなくてよくなったね。油彩画は当分お預けだね。糞が。何て人生だ。いいことなんてなかったよ。涙が出てきそうなのに口の周りが痙攣して笑みの形を作っている。こんな面でこんな場所に居られない。しかし帰る場所もない。誰も居ない。乾いた本ばかり。
おれは痺れそうな手をポケットに突っ込む。チャイルドレジスタンス機能がばっちりの糞固いライターに指が触れる。背表紙の文字が踊る。おれは。
おれは死ぬ。


◆アルターエゴ


家庭の。
ごたごたと試験期間が重なっていた。何もかも投げ出して、家庭菜園でも始めたくなってくる。課題を終えなくちゃならないのに材料もないから、九段下から神保町の方に向かって歩いていた。
「偶然」
この人はいつもここに居るから、偶然でも何でもない。
「変な顔しちゃって。どうしたのよ?」
人間、下半身がぶち切れてもこんなに陽気で居れるものだろうか。尊敬すべきなのだろうか。
いつもいつも、ここを通る時は妙な化け物を沢山見る。ここしか出ないから、幻覚というのも違う気がする。だからといって幽霊を見る才が今更芽生えたとも思いたくない。
動く寿老人の銅像、目が二枚貝の老婆、階段を落ち続ける少女。そのどれもがこちらの存在を意識し、干渉してこようとする。彼らに会うと、不思議と既視感のようなものを覚える。
嫌悪感かも知れなかった。
「多分、そうなんじゃねえのかな」
黒い、大きな影の塊が語り掛けてくる。頭の中を読み取られているようで、ぞっとした。
「怯々んなよ。食ったりしねえから。お前、何探しに来たの」
「何も、決めてはないです」
影は潜めた声で笑う。
「逃げてきたんじゃねえのか」
「え?」
「経験則だ。おれはそうだった。お前も、よく考えてみろよ」
嫌だ。この人と話していたくはない。
「嫌な筈ないだろう。お前も追われてきたんだろ。なあ、ちょっと歩きながら話さねえか」
影がのそりと立ち上がる。入道雲のように聳え立つ。黒い焦げがばりばり剥がれて、真っ青の皮膚が覗いた。
「まだ帰れねえだろう?」
髭面の妖怪はにやりと笑って、ポケットに突っ込んだそれを、確かに見たのだった。


◆終
by caramel_box02 | 2012-06-21 20:37 | みっじかいの(縣)
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